大畑大介選手とは?
大畑大介選手は、1975年に大阪市に生まれた。小学生の時にはすでにラグビーを始めており、1991年、東海大学附属仰星高等学校に入学した時のポジションはフルバックだった。当時は体が小さかったこともあり、高校日本代表に選ばれるも活躍の機会を与えられることはなかった。
その後、1994年に京都産業大学に入学し、学生ワールドカップで活躍。1996年には日本代表に選ばれ、アジア選手権に出場して初めてのキャップを獲得している。日本代表として2007年まで国際試合に出場し、神戸製鋼コベルコスティーラーズでは2011年まで現役選手として活躍した。
大畑大介選手が残した功績
大畑大介選手の残した主な記録は、テストマッチでの通算69トライや年間テストマッチ17トライという記録がある。また、テストマッチ1試合でのトライ数で日本記録を残している。
大畑大介選手は、記録以外にも記憶に残る数々の名場面を残してきた。その1つに1999年の香港セブンスにおいて決勝戦でスコットランドと対戦した試合がある。大畑大介選手がその試合で自軍からおよそ90mを独走し、劇的なトライを決めて大会MVPを獲得したことは現在でも語り継がれている。
大畑大介選手のライバルは誰?
そんな大畑大介選手がライバル選手として挙げるのは誰なのだろうか?
2011年4月に日本ラグビー協会が主催したスポーツフォーラムに登場した際、大畑大介選手は最大のライバルに仙波優(せんばまさる)選手の名前を挙げた。大畑大介選手の1歳年上にあたる仙波優選手は、同じ世代のプレーヤーの中でも敵として対した時に一番テンションの上がる選手だったそうだ。
残念ながら2人がフィールド上に立っている姿はもう見ることはできないが、同じ世代の良きライバルとして競い合っている様子はファンの記憶に残っていることだろう。
仙波優選手とは?
仙波優選手は、高校1年生の時に野球部からラグビー部に転向した。めきめきと頭角を現し、3年生でフルバックとして全国大会に出場している。その後、関東学院大学に進学して主将にもなっている。
社会人になってからはトヨタ自動車のラグビーチームで活躍。1997年には日本選手権に準優勝しており、翌98年には全国社会人大会で優勝している。同年に日本代表に選ばれたが、残念ながら1999年に交通事故のため亡くなった。
仙波優選手の特徴
圧倒的なスピードを武器にトライを量産した大畑大介選手と比較した場合、仙波優選手の武器は、なんといってもその馬力だった。ボールを保持しながら片手でディフェンスを押しのける姿は相手選手にとっては脅威だったことだろう。脚の速さやキレでディフェンスをかわす選手が多い中で、そんな仙波優選手のプレーは鮮烈だった。
不幸にも若くして亡くなってしまったが、歴代の大学ラグビーの名選手を挙げていくと、明治大学の吉田義人選手や大畑大輔選手などと並び、仙波優選手の名前が出てくるほど印象的な選手だった。
まとめ
大畑大介選手と仙波優選手を紹介した。
大畑大介選手は、現役引退後はメディア出演やスポーツ大使としての活動によってラグビー普及に携わっている。また、2016年にはラグビーの殿堂入りを果たした。
日本でラグビーの認知が広まったのも、このような偉大な選手たちの功績であると言えるだろう。