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大相撲出身のプロレスラーを、転向した経緯や功績なども織り交ぜて紹介

2017 3/8 20:01masumi
プロレス
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Photo by Sanit Fuangnakhon / Shutterstock.com

日本のプロレス界には、大相撲出身のプロレスラーが数多く誕生している。ここでは力士からプロレスラーに転向した人物にスポットを当て、その経緯や功績を紹介する。また、その中で日本プロレスの歴史を遡り、なぜプロレス界には大相撲出身のレスラーが多いのかも探っていく。

日本人初のプロレスラーは元力士

1883年、明治16年、日本人プロレスラーが初めてニューヨークのリングに上がった。リングネームは「ソラキチ・マツダ(敬称略)」、福井県出身の松田幸次郎さんだ。
松田さんは、プロレスラーになる前は「荒竹寅吉(敬称略)」という四股名の力士だった。伊勢ヶ浜部屋に所属し、明治期の東京相撲で序二段まで上がっている。力士廃業後、アメリカ人興行師の目に留まってアメリカに渡り、プロレスラーへと転身した。 デビュー後はトップレスラーとアメリカ各地で数多くの試合を行い、1884年にはミドル級チャンピオンに輝いている。

力士「力道山」関がプロレスと出会うまで

1940年に初土俵を踏んだ力道山さん(以下敬称略)は、1942年には三段目で優勝、1944年には幕下で優勝と進み、1946年には新入幕を果たしている。幕内では金星2個、殊勲賞1回と怪力をいかした押し相撲で活躍した。 関脇に昇進した1950年、在位23場所目の直前で、力道山は突然、自らまげを切って廃業する。25歳という若さでの引退だった。
廃業後の力道山は東京の建設会社で働いていたのだが、酒場での喧嘩が元で日系人レスラーのハロルド坂田さんと知り合い、プロレスの世界へ進むこととなる。

戦後の日本に力を与える大スターへ

1952年、力道山はアメリカへと渡った。 修業を積んで帰国すると日本プロレス協会を設立し、外国人レスラーを招いて全国で興行を行ったのだ。 1953年に始まったテレビ放送の影響も受け、プロレスは大ブームとなった。
時代は戦後の復興期、力道山が体の大きな外国人レスラーに立ち向かい、「空手チョップ」で次々となぎ倒す姿は、多くの人々に勇気と希望を与えてくれたのだ。 その後、力道山はインターナショナル・ヘビー級王座を獲得、ワールド大リーグ戦連続優勝など、名実ともにプロレス界の大スターとして一世を風靡した。

力士からプロレスラーへの転向について

大相撲出身の力道山が頂点に輝いたことで、プロレスラーへと転向する力士が増えていった。 相撲界で厳しい稽古を積んだ力士には圧倒的なパワーがあり、プロレスにおいても大きな武器となったのだ。また、筋肉と脂肪を備えた大きな体は体格面でも格闘技に適しており、日々の鍛錬で培った体の柔らかさも利点だった。
力道山以降には、第40代横綱「東富士」関、第54代横綱「輪島」関と、トップ力士もプロレス界に入っている。 しかしプロレスでは、長時間戦い続けるスタミナと、「魅せる試合」を行うことも必要となり、力士時代からの転換がうまくいかないこともあったようだ。

力士「天龍」関からプロレスラーへ

天龍源一郎さん(以下敬称略)は、1963年に二所ノ関部屋に入門し、翌年には「天龍」の四股名で初土俵を踏んだ。突き押し相撲が持ち味で、1973年には幕内に昇進し、在位16場所の中で西前頭筆頭まで上っている。
1975年には部屋の後継問題が起こり、力士としての活動に支障が生じるようになっていた天龍は、ジャイアント馬場さんを紹介され、プロレス転向を決意する。 1976年秋場所を勝ち越しで飾った後に廃業し、全日本プロレスへ入団。 断髪式は土俵ではなくリング上で行われた。

還暦を過ぎても活躍し続けた「ミスタープロレス」

天龍のプロレス初戦は1976年、修業を積んでいたアメリカで行われた。リングネームは「テン・ルー」で、断髪式直前のデビューだった。
デビュー後は様々なリングで活躍し、数えきれないほどのタイトルを獲得している。 天龍の男気あふれる試合スタイルとユーモアのある人柄は人気を集め、プロレス界の人気向上にも大きく貢献したのだ。
天龍は、2015年に65歳で引退を発表した。 還暦を過ぎても第一線で戦い続けた天龍は、「ミスタープロレス」と呼ばれ、今なおファンに愛されている。

まとめ

大相撲もプロレスも、テレビなどで目にすることも多く、日本では馴染みの深いスポーツだ。力士からプロレスラーへの転向は、思いのほか多く両方に注目してみると、どちらもより楽しめるのではないだろうか。

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