ボディビルダー出身、国際プロレス入団
アニマル浜口選手は、1964年、17歳の時からボディビルダーを志し、1969年にコンテストで準優勝します。当時からプロレスに興味を持っていた浜口選手は、同年、通っていたジムとつながりのあった国際プロレスに入団しました。
体格はプロレスラーの中でも恵まれてはいなかったものの、「プロレスの神様」と慕われたカールゴッチ選手ら名レスラーの教えを受けて成長し、国際プロレスが管理するIWA(インターナショナル・レスリング・アライアンス)世界タッグ王座に4度君臨。1970年代の海外修行では、プエルトリコの団体・WWCの北米タッグ王座、カナダのインターナショナルタッグ王座を獲得しました。
アニマル浜口選手のプロレススタイル
現役時代のアニマル浜口選手の衣装は、リングネーム通りのターザン風ワンショルダーを身につけていました。代表的な得意技は、コーナーから繰り出すダイビング・エルボー・ドロップやエアプレーン・スピン(飛行機投げ)などがあります。
特に、維新軍時代にタッグを組んでいた長州力選手との合体技によるパイルドライバーや、長州選手によるバックドロップの体勢後に浜口選手がトップロープから繰り出すジャンピング・ネックブリーガー・ドロップは定番の決め技でした。
国際軍団、維新軍で新日本プロレスに挑戦状
国際プロレスではラッシャー木村選手らとともに「四天王」の一人として数えられていたアニマル浜口選手。しかし、国際プロレスは新日本や全日本から遅れをとることになり、1970年代後半になると経営危機が加速。1981年に解散すると、直後に新日との対抗戦にラッシャー選手や寺西勇選手とともに「国際軍団」として参戦し、アントニオ猪木選手との変則マッチを行うなど話題を集めました。
浜口選手は寺西選手とともに1983年に国際軍団から離脱しますが、後のジャパンプロレスの母体となる維新軍で長州力選手と合流。引き続き新日正規軍との対戦は人気を集めました。
ジャパンプロレス設立、名タッグパートナーとして評価
浜口選手は維新軍の参謀として、そして長州選手の名パートナーとして実力と人気を開花させることになります。浜口選手は維新軍参戦の翌年、1984年には新日に不満をつのらせて長州選手らとともに退社し、ジャパンプロレスを設立しました。
今度は全日が主戦場となり、国際プロレスからの同僚である寺西選手と組んでアジアタッグ王座(1985年)を獲得します。浜口選手は長州選手だけでなく、ラッシャー選手やグレート草津選手などともタッグを組み、相手を引き立てる助演でパートナーから常に高い評価を受けていました。
1987年引退、プロレスラー養成所「浜口選手道場」設立
1987年にジャパンプロレスは選手側と経営側の内部対立によって分裂騒動が発生。長州選手らは独立して古巣の新日に復帰しましたが、浜口選手はこれをきっかけにして引退を選びました。
翌1988年、浜口氏は自身の名を冠したプロレスラー養成所「浜口選手道場」を設立。小島聡選手や大谷晋二郎選手など多くの名レスラーを輩出しました。プロレスラーではありませんが、長女の浜口京子選手をレスリングの世界王者に育て上げ、2004年のアテネ、2008年の北京五輪で連続メダルを獲得させるなど、名トレーナーとしてもおなじみです。
まとめ
現役時代はタッグの名手として評価の高かったアニマル浜口選手。
「気合だぁ」は娘の京子さんへの応援で注目が集まりましたが、それ以前にも、引退後に限定復帰した試合で、精彩を欠いていた長州力選手に「燃えろー!」と奮起を促すキャッチフレーズを発していました。
わかりやすい言葉とキャラクターは、タレントとしても人気を集めており、今後もその言動は注目を集め続けるでしょう。