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プロレス界のレジェンド、天龍源一郎選手のキャリアを解説

2017 1/18 10:02
プロレスリング,ⒸShutterstock.com
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Photo by 977_ReX_977/Shutterstock.com

天龍源一郎氏といえば、最近はバラエティタレントとしてしゃがれた声を生かしてお茶の間で大人気ですが、プロレスラーとしてどれほどすごい人物だったかを知らない方も多いのではないでしょうか。 そこで、天龍源一郎選手の39年間に渡るプロレスキャリアをまとめてみました。

大相撲からプロレスの舞台へ

1950年生まれの天龍源一郎選手は、大相撲の幕内力士として、一時は西前頭筆頭まで昇進し、相撲界でも活躍する力士でした。
農家で育った天龍選手は、中学2年生の時には既に182センチ、82キロと規格外に。二所ノ関部屋の後援者が有望な力士候補を探していたところ、父が「うちの息子は大きい」と返答したことがきっかけで、視察に訪れた同部屋所属の元横綱・大鵬氏の勧誘を受けて1963年に入門。 しこ名を「天龍」として、1973年から幕内に16場所在位しましたが、親方の死去に伴う部屋の移籍問題もあり、1976年の秋場所を最後に廃業。プロレスへと転向したのです。

ブレークのきっかけはアメリカ再修行

1976年に全日本プロレスに入団した天龍選手は、元幕内力士として新人としては異例の注目を浴びることになります。入団後にすぐ渡米修行に出たため、デビュー戦は海外でしたが、国内でのデビュー(1977年)はいきなり全日のスター、ジャイアント馬場選手とのタッグを組んで白星を飾りました。
しかし、期待と扱いの大きさとは裏腹に、大相撲時の体格を残して闘っていたため、スタミナ不足によって負けが込み、人気は低迷。そこで、再び渡米して各地の団体を転戦し、1981年に日系ヒールとしてNWA(全米レスリング同盟)のミッドアトランティック・タッグ王座に輝きます。天龍選手にとっては、これが初タイトルとなりました。

鶴龍コンビで一時代を築く

米国での再修行を終えて帰国した1981年が、天龍選手のブレークの年でした。 代役として出場したジャイアント馬場&ジャンボ鶴田組が持っていたNWAインターナショナル・タッグ王座への挑戦がきっかけで評価は急上昇。同世界ヘビー級王者のリック・フレアー選手への挑戦権も獲得するなど、「風雲昇り龍」は全日における第3の男として大ブレークを果たしました。
中でも1983年の世界最強タッグリーグ戦で鶴田選手と組んだ「鶴龍コンビ」は、優勝こそ逃したものの、馬場&ドリー・ファンク・ジュニア組と並んで2位という成績は、全日の世代交代を印象づける結果となりました。

馬場選手と猪木選手にピンフォール勝ちした唯一のプロレスラー

名タッグとして知られた鶴龍コンビですが、シングル戦では「鶴龍対決」として超人気カードとなります。1987年から90年までの全7戦で天龍選手は3勝4敗と負け越したものの、1989年6月の第4戦は天龍選手がパワーボムからエビ固めで勝利。全日最大のタイトルである三冠ヘビー級王座を獲得しました。
第7戦は自身のプロレスキャリアにおけるベストバウトと語る試合で、この試合を最後に天龍選手は全日を退団。90年代は自身が核となって作られたSWS(スーパー・ワールド・スポーツ)やWAR(レッスル・アソシエーション・アール)で活躍し、新日本プロレスへの対抗戦で盛り上がりました。

2015年に引退、バラエティで大活躍

1990年代後半、フリーとなった天龍選手は、1999年に武藤敬司選手を破ってIWGP(インターナショナル・レスリング・グランプリ)ヘビー級王者となり、全日・新日の国内2大メジャータイトルの制覇という史上2人目の偉業を達成。2000年には選手の大量離脱によって経営危機となった全日を助ける形で一時復帰し、WJプロレスの旗揚げに参戦(2003年)。ノア、ハッスルなどの新興団体にも積極的に参加しました。
2010年に自身の団体「天龍プロジェクト」も設立し、2015年の引退まで興行を続けました。天龍選手の代名詞であるパワーボムは、引退に近づくにつれて使われなくなりましたが、53歳で独自の垂直落下式ブレーンバスターを編み出すなど、年齢に応じてスタイルを柔軟に変化させて活躍を続けました。

まとめ

大相撲からプロレス転向と注目されながらも最初は目が出なかった日々。 2度目の渡米修行を経て成長した姿を見せたことで評価を上げ、さらには鶴田選手とのコンビやシングル戦の対決で全日を盛り上げていきました。 引退後はバラエティタレントとして活躍を見せるなど、新たな奮闘に注目が集まっています。