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プロレスの性悪王者、鈴木みのる選手の魅力を解説

2017 1/18 10:02
プロレスリング,ⒸShutterstock.com
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Photo by 977_ReX_977/Shutterstock.com

新日本プロレス、総合格闘技のパンクラス、そして再び全日本、新日本プロレスに復帰と格闘技界を幅広く渡り歩いてきたプロレスラー、鈴木みのる選手。 独特の剃り込みとヒールキャラが特徴的ですが、プロレスラーとしてどのような功績を残してきたのか、その歩みに迫ります。

新日本プロレスに入団、2年でUWFへ

鈴木みのる選手は硬式野球の名門で知られる横浜高校の出身。プロ選手も数多く輩出しているレスリング部で国体2位の成績を残し、1987年3、新日本プロレスに入団しました。
翌1988年にデビューし、若くして注目株だったことから1989年にはアントニオ猪木選手との試合も経験するも、設立して間もない「新生UWF(ユニバーサル・レスリング連盟)」へと移籍。藤原喜明選手や船木誠勝選手らも入団したことで人気が高まり、東京ドームで6万人を動員するほどの人気を誇りました。

プロレスを離脱、総合格闘技パンクラス旗揚げ

一時は隆盛を極めた新生UWFですが、1990年に入るとフロントと選手間の争いが生まれて3団体(プロフェッショナルレスリング藤原組、UWFインターナショナル、リングス)に分裂。鈴木みのる選手は藤原組に参加し、当時顧問として在籍していたプロレスの神様、カール・ゴッチ氏の影響を受けました。
しかし、格闘技路線を志望した鈴木選手は、船木誠勝(ふなきまさかつ)選手らとともに藤原組を離脱。1993年に総合格闘技団体「パンクラス」を設立し、実力主義を掲げたスピーディーな試合展開が人気を呼びました。

パンクラスから再びプロレスの舞台へ復帰

「秒殺」という流行語も生みだしたパンクラスで、鈴木みのる選手は1995年にケン・シャムロック選手を破り、パンクラスの第2代王者にも輝きました。しかし、旗揚げ時の盟友である船木誠勝選手とは柔術の導入をめぐって次第に仲違いを起こすようになったこと、そして首のけがによって欠場を繰り返していたことなどが重なり、次第にパンクラスを追い出される形となります。
一時は引退さえ考えた鈴木選手でしたが、2002年に試合をするはずだった佐々木健介vs獣神サンダー・ライガーの試合が流れたことで、健介選手の代役としてライガー選手とパンクラスルールで戦い、勝利を収めたことがきっかけで、プロレスに再び興味を持つようになりました。

2000年代後半は全日本プロレスが主戦場

総合格闘技の舞台に見切りをつけた鈴木みのる選手は、2003年、プロレス復帰の土台としてパンクラスのプロレス部門にあたる「MISSION」を設立。古巣である新日に参戦し、2004年にはIWGPヘビー級王座をかけて佐々木健介選手に挑戦。高山善廣選手と組んでタッグ王座も獲得するといった活躍を見せ、プロレスラーとして黄金期を迎えることになります。
一方、タッグ王座を引っさげて高山選手とともにノアにも殴り込みをかけていきます。2005年にはノア所属の丸藤正道選手とタッグを組むようになり、最終的にノアが管理するGHCタッグ王座(第10代)も獲得しました。

鈴木軍を結成、新日本プロレスやノアに殴り込み

2006年の鈴木みのる選手は、主戦場として全日本プロレスへも参戦。第35代三冠ヘビー級王座となり、プロレス大賞MVPにも輝きます。また、2007年以降はZERO-1MAX、ハッスルといった新興団体にも意欲的に参戦、全日本では当時不振を極めていた太陽ケア選手を鼓舞してユニット「GURENTAI」を結成するなど活動の幅もを広げました。
2011年に全日本との契約を満了すると、新日本で小島聡選手が作ったユニット「小島軍」のメンバーと結託して小島選手を襲撃して追放。小島軍に変わって「鈴木軍」を名乗り、新日本の侵略を宣言しました。

まとめ

鈴木みのる選手といえば、「世界一性格の悪い男」としてヒールぶりがクローズアップされがちです。 しかし、パンクラス旗揚げ時には格闘技への純粋な志向を持って臨み、パンクラスで引退同然となりながらもプロレスへの復帰をきっかけに暴れん坊として大活躍しました。 酸いも甘いも経験してきた生き様に、ファンは魅了されているのでしょう。