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プロレスラー、タマトンガ選手の経歴と魅力に迫る

2017 1/18 10:02
リングⒸShutterstock.com
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Photo by cigdem/Shutterstock.com

新日本プロレスなどにフリー参戦し、ヒール的な存在として人気を誇るタマトンガ選手。 ロックバンド・KISSを彷彿とさせる異色のペイントメークが特徴ですが、その素顔はイケメンで実力者でもあります。 そんなタマ・トンガ選手の経歴と魅力をまとめてみました。

タマトンガ選手はトンガ出身、父も弟もプロレスラー

タマトンガ選手の本名はピート・フィフィタ。南太平洋にある島国、トンガ王国の出身です。そこから「南海の怪鳥」「南海の野生児」というニックネームがつきました。
父親はかつて大相撲の幕下力士だった福ノ島関で、全日本プロレスやアメリカのプロレス「WWF」などにも所属していたキング・ハク(ウリウリ・フィフィタ)選手です。また、弟はWWEでも活躍したタンガ・ロア(テヴィタ・フィフィタ)選手で、2016年からタッグを組んでIWGP王座のベルトをつかみ取りました。

2010年までアメリカ、プエルトリコで活動していたタマトンガ選手

二世レスラーであるタマトンガ選手は、父のキング・ハク選手からレスリングを教わり、かつてECWで活動していたユニット「ダッドリー・ボーイズ」が主催する「チーム3Dアカデミー」で修行。その後はインディー団体「WXW」で弟のテヴィタ選手とタッグを組んだり、シングルプレーヤーとして2009年にWXW TVでタイトルを獲得したりという活躍を見せました。
2010年にはプエルトリコでメジャー団体「WWC」に参戦。一度はタッグの王座戦に敗れたものの、翌日に対戦相手を襲撃して欠場させ、2対1でのマッチを組ませてベルトを奪いました。

2010年5月から新日本プロレスに参戦したタマトンガ選手

タマトンガ選手が新日本プロレスに参戦したのは、2010年5月からです。当時28歳で、新日本主催のタッグトーナメントでタイガーマスク選手の代わりに出場したのがきっかけで、かつて日本で活躍していた父の名前にちなんで「タマトンガ」のリングネームを名乗るようになりました。
タッグ戦では初戦で敗れたものの、対戦相手で優勝した金本浩二&エル・サムライ組との試合が評価され、同年にはシングルでリーグ戦への参戦を果たしました。

2012年にはCMLL王座を奪取したタマトンガ選手

新日本では後藤洋央紀選手とタッグ(荒トンガ)を組んで参戦する中、2011年にはヘビー級へと本格的に転向。同年は試合中に右肩を脱臼して長期欠場を余儀なくされましたが、翌2012年は世界最古の歴史あるメキシコのメジャー団体「CMLL」に参戦。同年11月にはタッグ王座戦への挑戦に成功し、2度の防衛を果たしました。
このタッグ王座は2013年7月に棚橋弘至&獣神サンダーライガー組に敗れたことで連続防衛はできなかったものの、9月にパートナーを入れ替えて再戦した際にはピンフォール勝ちで王座へと返り咲きました。

ヒール転向を経て2016年には初のIWGP王座

2013年、タマトンガ選手は「ヒールターン」というプロレス人生における転換期を迎えました。プリンス・デヴィット選手らとともにヒールユニット「BULLET CLUB」を結成。2016年はユニット内の3人が移籍しましたが、これによってユニット内においてタマトンガ選手が注目を浴びることになります。
高橋裕二郎選手と組んだ新設のNEVER無差別級6人タッグ王座戦(1月)では矢野通&ブリスコ・ブラザーズ組に敗れたものの、2月の再戦ではリベンジを果たし、新日本で初のタイトルを獲得。4月には真壁刀義選手と本間朋晃選手によるユニット「G・B・H」に挑戦。弟のタンガ・ロア選手とともにこれを破り、初のIWGP王座に輝きました。

まとめ

海外団体での経験をひっさげて新日本に参戦しているタマトンガ選手。 ヒール転向直後は、BULLET CLUB内での立場は低くみられていたものの、メンバーの移籍を機に主力として奮闘。 弟とともにIWGP王座を奪取するなど、目覚ましい活躍を見せています。