柴田勝頼選手の生い立ち
プロレスラー・レフェリーとして活躍した父親・柴田勝久さんの影響で、自分もレスラーになるだろうと思っていたという柴田勝頼選手。三重県立桑名工業高等学校で、後藤洋央紀選手とともにレスリング部を立ち上げた。
レスリングの推薦で福岡大学への進学が決まっていたにもかかわらず、大学に行ったら4年間プロレスラーになれないとの思いで、高校の恩師と相談。推薦を取り消してもらい、新日本プロレスの入門テストを受けた。
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新日本プロレスを愛するがあまり、一度はその場を離れ、そして鍛え上げた肉体と自信のスタイルとともに新日本プロレスに戻ってきた男、柴田勝頼選手。 そのプロレス感や生い立ちなどを紹介する。
プロレスラー・レフェリーとして活躍した父親・柴田勝久さんの影響で、自分もレスラーになるだろうと思っていたという柴田勝頼選手。三重県立桑名工業高等学校で、後藤洋央紀選手とともにレスリング部を立ち上げた。
レスリングの推薦で福岡大学への進学が決まっていたにもかかわらず、大学に行ったら4年間プロレスラーになれないとの思いで、高校の恩師と相談。推薦を取り消してもらい、新日本プロレスの入門テストを受けた。
2005年1月から2012年9月まで約7年半にわたって新日本プロレスから離れていた柴田勝頼選手。2004年頃から棚橋弘至・中邑真輔両選手とともに会社とファンから期待され、「新・闘魂三銃士」と呼ばれていた。しかし、草間政一社長の「第3世代には若い選手の踏み台になってもらう」という、選手を消耗品としてとらえているかのような態度に激怒し、新日本プロレス退団を決意したという。
会社とすれば、バックアップ体制を保証する意図での発言ではあったのだろうが、柴田勝頼選手としては、将来の利益のための出来レースに参加することは、自身の中の新日本プロレスを壊しかねないものだった。そのため、「退団することが新日本プロレスだと思った」と語っている。
その後、ビックマウスとの契約やビックマウス・ラウドへの移籍、総合格闘技への参戦などの活動を続ける。格闘技戦向けの肉体を作るため、20kg以上の減量を行い、脂肪を落とした。狂犬レスラーとしてのイメージを強くしていくのもこの頃だ。肉体とファイトスタイルを変化させ、今までにないキレのある動きができる身体を作っていった。
さらに、クラシカルな動きを取り入れたことでレスリングの幅が広がり、アントニオ猪木さんを意識した動きをすることで往年のプロレスファンが見惚れるような肉体と強さを身に付けていく。
そして、2012年のG1 CLIMAX最終戦。「ケンカ、売りにきました」と宣戦布告ともとれるマイクアピールとともに、新日本プロレスに復帰した。
その後もスポット参戦を重ね、徐々に存在感を大きくしていった。華麗でも、スマートなわけでもないけれども、決して引かないという硬い意志が感じられる柴田勝頼選手のプロレスは、昔ながらの新日本プロレスの肉体や精神、そしてプロレスラーとしての純粋な強さを競う闘いを見ることができる。
2016年、主力選手の退団が相次ぐ中、柴田勝頼選手の新日本プロレス再入団が発表された。
2016年にNEVER無差別級王座を獲得しても、柴田勝頼選手は腰にベルトを巻くことはなかった。2015年のIWGPタッグで後藤洋央紀選手とベルトを獲ったものの、リターンマッチであっという間に取り返されたことで、「リターンマッチまでがタイトルマッチだ」と意識したという。
柴田選手は、タイトルを持つことにより、プロレスの各王座の特色を考え、自身のプロレスラーとしてのパーソナリティをより深めていきたいと思いを新たにしたという。
いかがだろうか? 速さとパワー、どちらかだけを最高にするのではなく、もちろんクラシカルな技術の攻防も大切に。 そんな、自身のプロレスの色を常に鍛え上げていく柴田勝頼選手の今後の活躍に注目しよう。