2輪ロードレースは日本製バイクが「最強」
9月15日のMotoGP第13戦サンマリノGPでは、王者マルク・マルケスとニューカマーのファビオ・クアルタラロが激戦を繰り広げた。優勝したのは王者マルケスであったが、クアルタラロは最終周まで接戦を演じ見応えのあるレースとなった。
そんな二人が乗るバイクがホンダとヤマハという日本が世界に誇るバイクメーカーである。実はMotoGPの最高峰クラスにおいてドゥカティのケーシー・ストーナーが栄冠に輝いた2007年以外、日本のバイクメーカーは1975年以降チャンピオンを獲り続けてきた。
ホンダ、ヤマハ、スズキが世界最高峰の2輪ロードレースの頂点に君臨する一方、カワサキは市販車バイクによる世界選手権であるスーパーバイク世界選手権で目下4連覇中、今年もトップを走っている。
今回はそんな2輪ロードレースの世界において絶対的な存在である日本製バイクメーカーの強さに迫ってみたい。
日本製バイクがレースで速く強い理由
なぜ日本製バイクメーカーが強いのか。その答えはMotoGPの世界を題材にしたドキュメンタリー映画「FASTEST」を観るとわかる。
当時低迷していたヤマハを、バレンティーノ・ロッシと共に常勝軍団に生まれ変わらせた立役者の古沢政生氏は劇中で語る。
「子供の頃は航空機のエンジニアになりたかった。だが戦後、アメリカによって日本は航空機製造を禁じられ、優秀なエンジニアは自動車か二輪業界に行った。それが日本のバイク工学が進歩した理由だ」
日本製バイクが世界に挑戦した1950年代当時は、海外メーカーのポテンシャルに圧倒されていた。日本のバイクと日本人ライダーが初めて参戦した1954年のサンパウロ市政400周年国際ロードレースで、バイクの性能はライバルたちと雲泥の差だったという。
そこから進化したきっかけは、ホンダ創業者・本田宗一郎氏の「マン島参戦宣言」である。世界中のメーカーが集うマン島TTレースに参戦し、優勝することを宣言した。
しかし、参戦当初は他メーカーのパワーの3分の1しかなかった。ヨーロッパのチームに笑われながらも日本人メカニックはパドックで写真を撮った。ライバルチームのバイクを写真に収め、そこからエンジニアたちは構造など全てを学んだという。
さらに実際にライバルが使用するバイクを購入。ライバルは日本が自分たちのマシンをただコピーするだけと考えていたが、実際は購入したバイクを研究・分析し、独自のマシンを生み出していった。
そしてホンダは、よりパフォーマンスを引き出す方法がエンジンの回転数を上げることだと気づき、見事に進化させた。
1959年にはマン島TTレースで初ポイントを得ると、信頼性の高さにより特別賞も勝ち取った。
1960年にもマン島でポイントを獲得し、同年のアルスターグランプリ250ccクラスでダブル表彰台へ。1961年には念願の優勝、そして125cc、250ccクラスで世界チャンピオンに輝いた。最高峰クラスである500ccでは1965年に初勝利を挙げる。
そして1975年、ヤマハが初めて世界チャンピオンを日本にもたらす。
当時は全く相手にならなかった日本製バイクだが、有能な日本人エンジニアが正しい知識を身につけ、コピーするのではなく正しい知識をもとに独自のマシンを作り上げていったことが現在の日本製バイクの強さにつながっている。
モータースポーツは「走る実験室」と呼ばれる。それはレースで培った技術が、我々の乗る市販車にも大きく影響を与えているからだ。レースはマシンを進化させ、新しい技術が生まれる場所である。レース界でゼロから学ぼうとした有能な日本人たちの姿勢が、今日の日本製バイクメーカーの強さを生み出したのではないだろうか。