競輪の誕生
競輪の始まりは、戦後直後にさかのぼる。元満州国官吏の海老澤と元陸軍大尉の倉茂の二人が、東京の有楽町に国際スポーツ株式会社を設立したことが最初のスタートになる。当時、湘南海岸一体にレジャー施設建設の事業構想が持ち上がるなかで、サイクルスポーツの振興と自転車産業の発展を大義名分にして、各地で盛んに行われていた自転車レースを賭けの対象にし、その収益金を復興の資金にしようと考えられたのだ。
その後、国際スポーツ株式会社での開催は難航し、日本政府の元で自転車競技法として法整備し、1948年に施行されることになっていく。
競輪の開催
自転車競技法が施行されのち、1946年には、第1回国民体育大会が開催され、第3回の大会で自転車競技が開催されることになる。この最初の開催地が福岡県の小倉市にある小倉競輪場だ。自転車競技場の建設をするには膨大な金額がかかるため、他の自治体は中々手を上げない中、小倉市は当時最も人気の高かった野球を同地で開催することを条件にして競技開催に承諾したという話がある。
そしてその後、国会会場であるこの小倉競輪場で競輪競争が行われた。これが競輪が単独で開催された最初の大会である。
競輪人気の高騰
競輪が誕生してから、競輪は国営競馬と比較されるようになる。競馬の方が競輪よりも控除率が高かったこともあって不振になり、競輪の人気が高まっていくことになる。
しかし、その人気の中で、大阪住之江競輪場での暴動事件の他、各地でも暴動が起きるるなどしたためマスコミの批判が大きくなった。1950年には国民からも非難を浴び、2か月間の自粛を受けることになってしまう。国会でも論議を呼び、日本共産党が競輪廃止法案を提出するまでに。この法案は何とか否決されたため、今現在も競輪は続けられている。
競輪人気に陰り
暴動事件が相次ぐ中、マスコミなどからの風当たりも強くなり、当時の農林大臣河野氏が記者会見場で競馬は土日祭日以外は開催しない方向で閣議提案すると発言。この発言の波紋を競輪も受け、大阪府主催の競馬、競輪の開催が中止される事態が起きてしまう。
その後、1995年6月には豊中競輪場が廃止となり、それ以降、近畿地区で競輪場の廃止が相次ぎ、その流れは近畿のみならず札幌、福岡、会津、長崎に。そしてなんといっても衝撃的だったのは、1972年の後楽園競輪場の廃止だ。
1967年に東京都知事に就任した美濃部氏が各公営ギャンブルの廃止を公約に掲げていたことから、廃止に追い込まれることになった。日本選手権も行われる"競輪のメッカ"とも呼ばれていた後楽園がなくなったことで、多くのファンが悲しみに包まれた。
競輪を再燃!KEIRINグランプリの開催
1983年、中々人気が向上してこない中で、競輪プログラム構想が持ち上がり、脚力が拮抗した選手同士による白熱したレースを観戦できるスタイルへと変更されていく。そして、通商産業省の競輪を再燃させる計画が始まり、当時のトップクラスのみの選手による競争を考え出す。
年末に大一番の目玉大会として、トーナメント方式ではなく、一発勝負の決選競争を打ち出したのだ。そして1985年12月30日にはじめてのKEIRINグランプリが立川競輪場でスタートすることとなった。
まとめ
競輪の歴史を紹介してきた。戦後間もなく開催されるようになった競輪は、人気絶頂から一転、不振の時期も経験してきた。近年では、年末最大レースKEIRINグランプリの開催を心待ちにしているファンも多い。