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最悪の6年を乗り越え復活Vの有村智恵 米国で味わった失意と国内復帰までの道のり

2018 7/17 15:00SPAIA編集部
有村智恵,Ⓒゲッティイメージズ
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Ⓒゲッティイメージズ

勝負を分けた15番ロングホールのバーディパット

LPGAツアー第19戦「サマンサタバサ ガールズコレクション・レディーストーナメント」は、連日30℃を超える猛暑の中行われ、有村智恵が6年振りとなる通算14回目の優勝を飾り、幕を閉じた。

2打差の中に10人がひしめく大混戦となった最終日、首位と2打差の7アンダー8位タイから出た有村は、上位陣のスコアが伸びない中、フロントナインを4バーディでスコアを伸ばし首位を捉えると、8アンダー5位タイからスコアを伸ばしてきた青木瀬令奈と11アンダーで並び一騎打ちとなった。

そして迎えたバックナイン。先手を取ったのは一組後ろを回る青木だった。13番ミドルホールをバーディとして一歩抜け出すと、15番ロングホールでも3打目を約1.5mのバーディチャンスにつけて、勝負を決めたかに思われた。しかし、「ラインを決めきれずに打ってしまった」と言うパットは入らずパー。続く16番ショートホールをボギーとして力尽きた。

一方の有村は、14番ミドルホールで10mのパーパットを決めてピンチをしのぐと、流れを引き寄せたのだろう。続く15番でバーディ、最終18番ミドルホールでもバーディを決めて、優勝を決定づけた。6年間の思いがよぎったのか、バーディパットを決めた後、目を潤ませたのが印象的だった。

順風満帆、13勝を挙げた日本時代

有村選手は1987年11月22生まれの30歳。熊本県から当時宮里藍選手が在籍した宮城県の東北高校に入学して、ゴルフ部で活躍、卒業後、2006年に受験したプロゴルフテストではトップ合格を果たしている。

2006年は11試合に出場、賞金ランキングは60位だったが、翌2007年には33試合に出場して賞金ランキングは13位に躍進、余裕でシード権を獲得した。

それからの活躍は凄まじく、2008年プロミスレディスゴルフトーナメントで初優勝すると、2009年には年間5勝を挙げ賞金額は1億円を突破。賞金ランキングは3位に入りトッププロの仲間入りを果たした。

2010年1勝、2011年3勝、2012年3勝と勝利を重ね、賞金女王も時間の問題と思われた。しかし、このとき有村の目は海外に向いていた。2012年にはUSLPGAのQTに挑戦して5位で通過すると、2013年からは、主戦場をUSLPGAツアーに移すことになった。ここまで有村のゴルフ人生は順風満帆そのものだった。

USLPGAで味わった最悪の時代とそこからの復活

2013年USLPGAツアー挑戦初年度の成績は、20試合に出場して、賞金ランキング61位と決して満足の行くものではなかったが、シード権を獲得して来季に期待をつなぐことはできた。しかし続く2014年は賞金ランキング106位に終わり、シード権を消失。QTを受け直したものの、下位に低迷しツアー出場権を獲得できなかった。

この時点で、2012年の日本女子プロゴルフ選手権出場で獲得していた2015年までのシード権に賭けて、日本ツアーに帰ってくる選択肢もあったはずだが、アメリカに残り、下部ツアーを戦いながら、チャンスを伺う道を選だ。

賞金ランキング132位まで下がった2015年はQT43位とやや待ち直し、条件付きの出場権を獲得した。しかし、有村が出場することはなかった。下部ツアーでしっかり戦い、実力をつけてからでないと、USLPGAツアーに上がっても直ぐにはね返される。そう考えていたのだろう。

そんな有村が日本復帰を決めたのが、2016年4月に発生した熊本大震災だった。志半ばだったが、故郷熊本の被災者の方に、日本で戦う自分の姿を見てもらい。そう考えた有村は米ツアーへの未練を断ち切り、出場資格のない国内ツアーへ戻る道を選んだ。

2016年は主催者推薦などの10試合の出場にとどまったが、2016年のQTを17位で通過、2017年は30試合に出場して、賞金ランキングを58位まで上げた。2018年はQTランキング8位でシーズンを迎え、6月の宮里藍 サントリーレディスオープンゴルフトーナメントではプレーオフに進出。いつ優勝してもおかしくないところまで復調していた。

米ツアーで味わった失意。出場資格のない状態で臨んだ国内ツアー。最悪の6年間を糧に復活した有村の今後に期待したい。