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日本のゴルフを牽引し世界へ挑戦した青木功の功績

2016 8/20 14:15
ゴルフボール,フェアウェイ
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「世界のアオキ」こと青木功、73歳の現在もゴルフのシニアツアーに参戦、その魅力を紹介する。

ゴルフを始めたきっかけ

千葉県我孫市の生まれ、14歳の時に同級生の鷹巣南雄(後の盟友)とともに、ゴルフ場でキャディのアルバイトをしたことから興味を持ち、中学校卒業後に東京都民ゴルフ場にキャデイとして就職した。
その後2回目の受験で合格し、1964年にプロ入り、1971年の「関東プロ」で初優勝を飾った。1976年には1勝ながら初の賞金王になっている。180センチ、80キロと恵まれた体格で、中学時代は野球部で長身を活かし、一塁手だった。友人でもあり、よきライバルでもある鷹巣南雄の紹介で王貞治との親交を持ち、スポーツ界の鑑と手本にするようになった結果、ゴルフで良い成績を残すようになったそうだ。
その結果、「世界の王」に続き「世界のアオキ」と呼ばれるまでになったのだ。

人物像・略歴

大変気さくで開けっ広げな性格で知られており、アメリカでは英語を話せないのに、日本語で色々な選手にどんどん話しかけ、不思議とコミュニケーションがとれていたそうだ。グレグ・ノーマンと親友で、2人の会話は青木が日本語、グレグが英語でそれぞれ話すのだが、問題なく意思の疎通ができるのだそうだ。
プロ入り後鳴かず飛ばずの時期には競輪で稼ぐなど苦労もされたが、1978年からは、4年連続賞金王に輝いた。その頃から海外ツアーへの挑戦が始まる。日本と海外を行ったり来たりの生活が続いたそうで、かなりキツかったようだ。
日本ゴルフツアー通算51勝は歴代2位の記録だ。2016年からは、日本ゴルフツアー機構(JGTO)の会長に就任している。

主な戦績 海外ツアー

1978年に英国開催の「ワールドマッチプレー」で優勝し、1980年の「全米オープン」では帝王ジャック・ニクラウスと死闘を争い2位、「全英オープン」では3日目にメジャータイ記録の63をマークした。

1981年には米国ツアーのライセンスを取得、1983年の「ハワイアンオープン」では最終日最終ホールで128ヤードのチップインバーディを入れ奇跡の逆転初優勝、1982、1983年にはアメリカツアーでサンドセーブ率第1位に輝いた。1989年にはオーストラリアツアーの「コカ・コーラクラッシック」を制し、日米欧豪の4ツアーで優勝という快挙を成し遂げた。
1992年からはアメリカシニアツアー(現チャンピオンズツアー)に参戦し、通算9勝、1997年の「エメラルド・コーストクラッシック」2日目には当時同ツアー新記録60をマーク、2004年には日本人男子として初の世界ゴルフ殿堂入りを果たした。その後日本でも殿堂入りを果たしている。

青木功 伝説

その1 100ヤード以内の技術が世界一との呼び声が高く、死闘を繰り広げた帝王ジャック・ニクラウスに「オリエンタルマジック」と称された。
その2 1回まわったコース、過去のショットも全て記憶している、驚異の記憶力!電話番号も然り、100件以上覚えいるそうだ。
その3 1977年初めてのの全英オープンは予選落ち、「なんだ荒川とそっくりじゃないか」と帰国後、河川敷コースで猛特訓、翌年の全英オープンで初日は68でトップタイに並び、結局首位と4打差の7位で終了した。
その4 「ゴルフはゴロフ」青木功の名言だ。点ではなく線でカップを攻める、転がしてカップをせめればその線上にカップがある……それが青木功のプレイスタイルなのだ。
その5 弘法筆を選ばず。研修生時代はクラブを奪い合って練習していたが、じゃんけんが弱くSWやAWは選べず、7番・8番アイアンばかりだったため、ガードバンカーからアイアンできれいに出す自信がある!

……などなど、数々の伝説も残している。

まとめ

尾崎将司や中島常之とならび日本のゴルフ界を代表するゴルファーの、青木功、海外での活躍は素晴らしい。

プロ入り50周年を迎えた2014年の5月に左ひざの半月板の手術をしたが、9月に復帰し、2015年にはシニアツアー開幕初日にエージシュートを達成するなど、大きな存在感を示した。同じく2015年には旭日小綬章を受章している。

最近ではゴルフの解説でもおなじみだが、まだまだお元気で現役プロとして華麗なショットで魅せてほしい。