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日本男子プロゴルフ界を牽引する中嶋常幸選手の輝かしい功績

2016 12/21 19:03
ゴルフボール,ゴルフコースⒸshutterstock.com
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Photo by Patryk Kosmider/Shutterstock.com

日本の男子プロゴルフ界を牽引する中嶋常幸選手。その功績を紹介する。

「AON時代」の一人として日本の男子プロゴルフ界を牽引

中嶋常幸選手は、青木功選手、尾崎将司選手とともに「AON時代」と呼ばれ、日本の男子プロゴルフ界を牽引する選手の一人だった。
1990年代半ばのツアー中に本名の「中嶋」から「中島」に変更したのも、ファンの間では有名な話だ。「つねゆき」という名前が海外では発音しづらいことから、「トミー」の名で親しまれている。
そんな中嶋常幸選手だが、1972年(当時18歳)に史上最年少で日本アマで優勝を果たすと、1975年には念願のプロ入り。その後は数々のタイトルを獲得するトッププロへと成長していく。

4大メジャーすべてでベスト10入りしている日本人は中嶋常幸選手だけ

1985年には日本最高峰と称される日本オープンや、海外のトッププロも招待して開催されるダンロップフェニックストーナメントにおいて、日本人選手初となる優勝を果たすなど、念願の年間獲得賞金1億円の大台に乗った。そして翌年には日本オープン2連覇を含む年間8勝を記録している。
中嶋常幸選手の活躍は日本だけでなく海外でも目覚しく、世界の4大メジャー大会(マスターズ、全米オープン、全英オープン、PGA)と言われている大会すべてでベスト10入りしている。これは、日本人では中嶋常幸選手だけだ。

スイング改造でスランプに陥った1980年代後半

そんな中嶋常幸選手だが、1980年代後半にスイング改造を行うと、たちまちスランプに陥る。1985年、86年と好成績を収めたが、88年には未勝利という結果に。賞金ランキングも20位まで下降の一途だった。
それまで好成績を収めていただけに、ファンの間では「スイング改造は失敗だったのでは?」とネガティブな印象を抱かれがちだが、そこが中嶋選手のいいところ。現状に満足することなく、常にストイックに上を目指す姿があったからこそ、これまでの中嶋選手の活躍があるのだ。

1990年代に2度目のスランプ

1980年代後半のスイング改造から一変、1990年代にはそれが功を奏し、フジサンケイクラシックではホールインワン(賞金600万円)を達成。さらに、日本オープン優勝を2連覇するなど、再度、トッププロとして活躍した。しかし、1990年代半ばに2度目となるスランプに突入してしまう。
パッティング時に手が痺れて自由に動かすことができないイップス病や、たび重なる故障により成績が悪化。すると2000年には、賞金ランキングが100位台まで後退。長きにわたってスポンサー契約していた企業とも契約解除という結果になってしまった。

レギュラーツアーで若手選手を差し置いて優勝

50歳を過ぎても現役としてトップを走り続ける中嶋常幸選手。2006年(当時52歳)に開催された三井住友VISA太平洋マスターズでは、若手のトップたちを退けて優勝。レギュラーツアーにもかかわらず優勝というこの偉大な記録は、世界的にも希少な例として今もなお語り継がれている。
この翌週に開催されたダンロップフェニックスに出場していたタイガー・ウッズ選手が、中嶋常幸選手を祝福するために声を掛けたシーンは、中嶋選手の偉大さを象徴するエピソードとなっている。

まとめ

中嶋常幸選手について紹介した。 2度のスランプを乗り越え、現在も現役として、そして日本の男子プロゴルフ界を牽引する選手として活躍している中嶋常幸選手。 今後も長きにわたって現役にこだわり続けてほしい。