ISUグランプリシリーズの歴史
ISUグランプリシリーズは、国際スケート連盟(ISU)が承認する国際競技会。アメリカ、カナダ、日本、フランス、ロシア、中国の6つ国で開催される内の2つの大会に出場し、その順位に応じて付与されるポイントの上位者6名が、グランプリファイナルに出場することができる。出場選手はファイナル出場を目指してそのシーズンのプログラムを演じる。
グランプリシリーズは、1995年にドイツ、アメリカ、カナダ、日本、フランスがそれまで各国で行われていた5つの大会をまとめてシリーズ戦としたことがじまりだ。1996年にはロシアが加入し、2002年度にはドイツが離脱したものの、かわりに2003年から中国が加入し現在に至る。
ISUグランプリシリーズの出場資格とは
ISUグランプリシリーズへの出場資格は毎年発表されるが、2007年以降はほぼ同じ内容となっている。
仮に2014年の例を挙げると、世界選手権で上位6位までの選手はシード選手としてくじ引きで2つの大会への出場が割り当てられている。また、過去10年間の世界選手権で6位以内の選手が復帰する場合は、前年度の大会に出場していなくてもシード選手として2大会への出場が認められる。浅田真央が2015年に復帰してグランプリシリーズに出場したのはこのルールによるものだったのだろう。
シード選手の他に、前年の世界選手権で7位~10位の成績でかつミニマムスコアか、ISUの最低技術点を満たす選手にも出場資格が与えられる。ミニマムスコアというのは、その年の世界選手権の優勝者の3/5のスコアのことだ。
記憶に残るISUグランプリシリーズ2011 ファイナル
2011年のグランプリファイナルはカナダで開催され、男子シングルは王者として君臨する地元のパトリック・チャンが金、日本の高橋大輔が銀、ハピエル・フェルナンデスが銅を獲得。ハピエルはスペイン人初の表彰台となった。
結果は4位とメダル獲得とはならなかったが、感動を与えたのが羽生結弦の演技だった。フリーで演技した「ロミオとジュリエット」は、その音楽の選曲・編集から振付に至るまでまさに最高のプログラムと絶賛され、”命を削るほどの魂の叫び”のようなスケーティングに会場が魅了された。世界中が弱冠17歳の羽生に注目し、同時に次のオリンピックでの活躍を予感した瞬間だった。
3月に起こった東北大震災のためリンクが使えなくなるという不利な状況の中、スケートを続けて良いのかと葛藤しながらアイスショーに出演、練習を重ね、阿部七美コーチ(当時)と二人三脚で臨んだ競技会だった。