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平成30年 羽生結弦66年ぶり五輪連覇 【平成スポーツハイライト】

2019 1/1 11:00SPAIA編集部
羽生結弦,Ⓒゲッティイメージズ
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Ⓒゲッティイメージズ

東日本大震災から立ち上がる

次から次にスターが誕生した平成のリンクで、とりわけ女性から熱い支持を得た羽生結弦。小学生の頃から「天才少年」と騒がれ、平成21年のジュニアグランプリファイナルでは史上最年少の14歳で総合優勝。23年2月の四大陸選手権では、初出場で銀メダルを獲得し、男子選手としては四大陸選手権史上最年少のメダリストとなった。

同年3月11日、東日本大震災が発生。東北高校3年だった羽生は仙台市内のリンクで練習中だった。大きな揺れに慌て、スケート靴を履いたまま外へ避難。自宅も被害を受けたため4日間避難所で過ごした。各地の甚大な被害を知り、余震のたびに身を硬くした。家族4人で一つのおにぎりを分け合った日のことは決して忘れない。

心に傷を負った16歳は、センバツ甲子園で東北高校の仲間たちがプレーする姿を見て勇気づけられた。僕もスケートで被災者を勇気づけたい―。

羽生は再び立ち上がった。リンクは閉鎖されていたが、練習代わりに各地のアイスショーを転戦した。その年11月のロステレコム杯でグランプリシリーズ初優勝。翌年3月の世界選手権では初出場で銅メダル。技術要素点では優勝したパトリック・チャン、2位の高橋大輔らを上回る同大会最高得点をマークした。

ケガをおして圧巻の演技

平成24年春からオーサーコーチの下、カナダ・トロントに練習拠点を移した。羽生は4回転ジャンプに磨きをかけ、翌25年のグランプリファイナルで初優勝。五輪切符を手にした。

26年2月のソチオリンピック。SPは世界最高得点で首位に立ち、フリーでは転倒するシーンもあったが、SPで2位につけていたパトリック・チャンもミスが相次ぎ、冬季オリンピックではアジア人初となる金メダルに輝いた。

その後もグランプリファイナルを4連覇し、世界選手権でも優勝するなど平昌へ着々と歩みを進めた。しかし、直前で悲劇に襲われる。平成29年11月のNHK杯、公式練習で転倒した際に右足関節外側靱帯を損傷。ブランクを余儀なくされた。

翌30年2月、平昌オリンピックはぶっつけ本番だった。先に行われた団体戦出場も回避し、遅れて現地入りした。ケガは完治していなかったが、SPでは全てのジャンプを完璧に決めて首位発進。翌日のフリーも4回転トーループでミスはあったものの、2位以下を10点以上引き離す圧巻の演技で見事に金メダルを獲得した。ディック・バトン(米国)以来、実に66年ぶりの連覇となった。

史上最年少で国民栄誉賞

その後、治療を理由に3月の世界選手権を辞退。4月に仙台市内で凱旋パレードし、6月には史上最年少で国民栄誉賞を受賞した。復帰戦となった9月のオータムクラシックで優勝を飾った。