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フィギュアスケートの伝説の人!伊藤みどりについて

2016 11/1 19:56
フィギュア 伊藤みどり
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Photo by jinwook shin/Shutterstock.com

フィギュアスケートのファンにとって、印象深い伝説のスケーターがいる。それは”伊藤みどり”だ。女子のスケートレベルをグーンと引き上げた伝説のエピソードを5つ紹介する。

圧巻!まるで異次元のジャンプ!

伊藤みどりは、1969年生まれ、名古屋市出身で山田満知子コーチに師事していた。小学校6年生で既にトリプル・トリプルを飛び、1988年のNHK杯で、世界中の女子で初めて飛んだトリプルアクセルは、現在の選手と比較しても、高さ、スピード、滞空時間、飛ぶときの助走の少なさ、どれも超越している。海外では「100年に一度の天才スケーター」と評価が高く、国際大会では会場で大きな声援、拍手を得て大人気だった。伊藤みどりのトリプルアクセルは、飛ぶ前に減速せずに、むしろ加速したまま飛ぶので、飛距離も浅田真央選手の1.5倍あるそうだ。

伊藤みどりの主な成績


1985年-1992年:全日本選手権8連覇
1988年:カルガリー五輪 5位
1989年:世界選手権優勝
1992年:アルベールビル五輪 銀メダル
2004年:日本人で初めて世界フィギュアスケート殿堂入り
2011年:世界アダルト選手権 マスターズエリート2 2位
2013年:同 1位

当時女子には不可能といわれたジャンプを次々に飛んだにもかかわらずカルガリー五輪では、メダルに手が届かなかった。本来5位の伊藤みどりにはエキシビションの出場資格はなかったのだが、「もう一度伊藤みどりの演技を見たい」という、問い合わせが殺到し急遽出場が決まり、しかも通常トリは金メダリストなのだが、彼女がトリを飾ったのだ。それほど彼女の演技は、衝撃的だった。

事前練習でケガをするも出場 勢い余ってリンクの外へ

1991年の世界選手権のSPの前の6分間練習でフランスの選手とぶつかった。相手の選手には怪我はなく、ジャンプの体制に入った伊藤選手は相手のエッジが左の靴に刺さり、衝突の衝撃でフェンスにぶつかり腹部を強打した。
靴を脱ぐと痛みで再び履くことが困難と考え、そのまま競技に臨んだものの、コンビネーションジャンプの2つめのジャンプで勢いがつきすぎたのか、目測を誤ったのか、リンクの外の報道のカメラスペース(フェンスの切れ目)に着地してしまったのだ。そしてそのままさっさとリンクに戻り演技を続けた。
演技終了後には自分の頭をコツン、コツン、それからカメラのところに行き、リンクの上の破片を拾った。それにしても、飛び出た時もリンクに戻った時もすごいスピードだった。競技の結果は大きなハプニングにも関わらず4位だった。

伊藤みどりは天才少女だった

スケートを始めたのは3歳の頃に家族と遊びで、そして5歳の時にスケート教室の生徒を真似していたのが山田満知子コーチの目に留まった。教室の生徒よりも上手であり、まさに運命の出会いだった。
幼稚園児なのに小学生のレッスンに参加、初級から上級までを10日間で修了した。その後、小学4年生で全日本ジュニア選手権に優勝、1980年の世界ジュニア選手権に11歳で出場し、フリー1位、総合8位、全日本選手権で3位の快挙だ。天才少女はまた練習も人一倍頑張り、中学生になると山田コーチの家に暮らすようになり早朝、深夜と練習を重ねた。
しかしジャンプの体への負担は大きく、中学生のときに右足首を2回骨折、以来、1992年に引退するまで500回以上も怪我の治療を受けた。ファンとしてはまだまだ演技をみたかったのだが、満身創痍だったのだ。

伊藤みどりに憧れる浅田真央選手

トリプルアクセルといえば、浅田真央の代名詞といえるが、その浅田選手が憧れの選手として、伊藤みどりを挙げている。性格や、飛び方、表現など違うタイプの2人だが、共通しているのはどちらも天才ということだろうか。ソチ五輪のフリーで6種類8つののトリプルに挑戦した浅田選手は、オリンピックでトリプルアクセルを飛ぶ、という伊藤みどりの精神を継承しているようだ。
また、伊藤みどりの衣装を譲り受けて何度か競技会に着用している。同じ衣装で、パワーや元気をもらえたかもしれない。きっと今後も若い選手に継承されていくことだろう。

まとめ

それまでの女子のフィギュアスケートは芸術性を重要視していたが、伊藤みどりによってスポーツ競技として進化させたといえる。できたらもっとテレビの解説や、指導者として選手の育成や協会の広報活動など、フィギュアスケートに関わってほしいと思う。