勝利よりも重い「カーリング精神」
2026年ミラノ・コルティナ冬季オリンピックの足音が近づく中、「氷上のチェス」と称されるカーリング界で、ひとつの静かな、しかし極めて重要な「選択」がなされた。それは競技の根幹に関わる用具規則の厳格化であり、その引き金となったのは、統括団体の強制力ではなく、アスリート自身が抱く「公平さ」への強い意志そのものであった。
この出来事は、単なる道具の規制変更というニュースを超え、カーリングというスポーツが守り続けてきた独自の倫理観、「カーリング精神(TheSpiritofCurling)」を現代に再確認させる契機となった。なぜ彼らは自らに有利になるかもしれない「魔法の杖」を拒絶したのか。
その背景にある、勝利よりも重んじられる価値観について紐解いていく。
道具による支配を拒んだアスリートたち
2024年から2025年にかけて、カーリング界は「ブルームゲート2.0」と呼ばれる騒動に揺れていた。問題の核心は、ブラシのヘッド内部に使われる「フォーム(スポンジ素材)」の進化にあった。
ある時期から、硬質のフォームを使用することで、スウィーピングの力が氷に過剰に伝わり、ストーンの軌道を物理法則に反するほど曲げたり、止めたりすることが可能になっていた。
これはもはや、投球の精度やチームの連携を競うのではなく、どのメーカーのどのフォームを使うかで勝負が決まってしまう状況を生み出した。
勝利を追求する現代の競技スポーツであれば、ルールで禁止されていない限り、より高性能な道具を使用するのは自然なことかもしれない。しかし、カーリングのトップ選手たちは違った。2025年1月、世界のトップチームが連名で「フェアプレーのための提案書」を提出し、問題のある用具の使用を自ら控えること、そして即時の規制を求めたのである。
彼らが恐れたのは、自分たちが負けることではなく、技術と献身によって磨かれるべき競技の本質が損なわれることだった。この「不当に勝つくらいなら負けを選ぶ」という姿勢こそが、カーリングを他のスポーツと決定的に分かつあり方である。
カーリング精神とセルフジャッジ
カーリングの規則書の冒頭には、技術的なルールよりも先に「カーリング精神」が記されている。そこには、相手を尊重し、決して侮辱せず、意図的な妨害を行わないという誓いが込められている。
この精神が最も顕著に表れるのが、審判の役割である。オリンピックのような最高峰の舞台であっても、プレー中の反則判定は、原則として選手自身の「自己申告(セルフジャッジ)」に委ねられている。もし投球中やスウィーピング中に、自分の体やブラシがわずかでもストーンに触れてしまった場合(バーンド・ストーン)、選手は誰に指摘されなくとも自ら手を挙げ、その事実を申告する。
サッカーやバスケットボールなどでは、審判の死角をついて有利な状況を作ることも「マリーシア(狡賢さ)」として、一種の駆け引きとされることがある。しかしカーリングにおいて、そのような行為は戦術ではなく、競技者としての尊厳を捨てる行為とみなされる。
審判という外部の監視者がいなくても、選手同士の信頼と良心によってゲームが成立するという前提が、このスポーツの清廉な空気を醸成している。
敵ではなく、良きゲームを作るパートナー
この独自の倫理観は、試合後の儀礼にも色濃く反映されている。カーリングには「ブルームスタッキング」と呼ばれる伝統的な慣習がある。これは試合終了後、敵味方が一つのテーブルを囲み、飲食を共にしながら互いの健闘を称え合う時間のことだ。
興味深いのは、「勝ったチームが負けたチームに飲み物を振る舞う」という不文律が存在することだろう。通常の勝負事であれば勝者が報酬を得るものだが、カーリングでは勝者が敗者をもてなす。これには、試合中の敵対関係を速やかに解消し、氷を離れれば同じスポーツを愛する仲間であるという意識を確認する機能がある。
また、試合途中で敗北を認めて握手を求める「コンセッション」も、最後まで戦わないことが失礼とされる他のスポーツとは対照的である。勝機がほぼ潰えた段階で潔く負けを認めることは、相手の強さを認めるだけでなく、相手の時間と労力を尊重する「礼儀」として定着しているのだ。
2026年ミラノ・コルティナ冬季五輪へ向けて
2026年のミラノ・コルティナ大会では、選手たちの意志によって浄化された、新たな用具基準の下で熱戦が繰り広げられる。硬質フォームによる「魔法」は消え去り、勝敗を分けるのは、純粋な投球技術と人間の力によるスウィーピング、そしてチームの戦術眼のみとなる。
高度に商業化され、勝利の価値が肥大化した現代スポーツ界において、カーリングが示す「自律」と「他者尊重」の精神は、一種の奇跡のように映るかもしれない。しかし、選手たちが自ら声を上げて公平さを守り抜いた今回の経緯は、カーリング精神が単なる古臭いスローガンではなく、今もなお競技の根底に力強く息づいていることを証明した。
氷上で放たれる一投一投の背後には、勝利への渇望と同じくらい強く、正々堂々さを希求する高潔な魂がある。その静かな誇りに目を向けることで、来るオリンピックでの観戦体験はより味わい深いものになるはずだ。