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沢村忠からK-1まで。5分でわかる「キックボクシングの歴史」

2017 7/10 10:01takutaku
キックボクシング
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Photo by Serhii Bobyk/Shutterstock.com

キックボクシングの母国が日本だということをご存知ですか? 今でこそすっかり市民権を得ているキックボクシングですが、その歴史には激しい浮き沈みがありました。 誕生前夜からK-1まで、キックボクシングの歴史をざっくりまとめました。

キックボクシングの生みの親、野口修

「キックボクシングの生みの親は?」という問いに対して、あえて1人の人物を挙げるなら、「野口修」ということになるでしょう。野口氏はボクシングのプロモーターとして活躍していましたが、昭和34年にムエタイの前チャンピオンを空手家の山田辰雄氏に引き合わせた人物として知られています。
当時の山田氏は、まだ日本で普及していなかったフルコンタクト空手の構想を練っていました。フルコンタクト格闘技の王様であるムエタイチャンプとの邂逅が、キックボクシング誕生の種となったのです。
ムエタイから刺激を受けた日本の空手家たちは本場タイに遠征。現地で空手対ムエタイの興行を行い、見事2勝1敗と勝ち越します。
この結果を受けて、野口氏は従来の空手やボクシングにない新しい立ち技系格闘技を考案し、「キックボクシング」と命名しました。昭和41年には日本キックボクシング協会が設立され、ここに「日本生まれの格闘技キックボクシング」が正式に産声をあげたのです。

草創期のキックボクシングは何でもアリ!

キックボクシングの草創期は、現在のようなキック、パンチ中心の格闘技ではありませんでした。投げ技、関節技、頭突き、急所攻撃、ロープの反動を利用した攻撃などなど、まるでプロレスのような試合が当たり前でした。
なぜこのようなルールが認められていたかは、今となっては知る由もありませんが、寸止めや軽く当てるだけの従来の空手に飽き飽きしていた関係者が、観客を喜ばせるための「真剣勝負」を追求していった結果、このようなルールが広まったのだと推測されます。

キックボクシングの代名詞、沢村忠の誕生

キックボクシング界に初めて登場したスターが沢村忠選手であることに異論を挟む人はいないでしょう。 沢村選手は野口修氏が旗揚げした日本キックボクシング協会の選手第1号でした。デビュー戦ではムエタイ選手に2ラウンドKOで勝利したものの、タイ遠征ではランキング上位選手に惨敗。沢村選手はもともと空手家だったため、パンチ主体でしたが、この敗北の経験から蹴り技を猛特訓。真空飛びヒザ蹴りなどの必殺技を武器に、一躍スター選手としてのし上がります。
テレビ中継全盛期には、プロレスや野球、大相撲にも引けを取らない視聴率を取り、「沢村忠」はキックボクシングの代名詞となったのです。

日本キック界を席巻する外国人選手ブーム、そして低迷期へ

沢村忠選手の後も、タイ人以外ではじめてムエタイ王者となった藤原敏男選手など、スター選手が次々に現れ、キックボクシング界は黄金期を迎えます。
テレビ中継の視聴率は20%超が当たり前。海外の有力選手たちも、日本の格闘技マーケットとしての魅力に気づき、ベニー・ユキーデ選手を筆頭とするスター選手が続々と来日して興行を行うようになります。
ところが、1980年代後半に入ると、キックボクシングのテレビ中継が打ち切られるようになります。これが引き金となり、キックボクシングは深刻な低迷期を迎えます。1000人分の客席を設けた会場に100人しか入らない……そんな苦しい時代が長く続きます。

立嶋篤史とk-1で息を吹き返すキック界

低迷にあえぐキック界を救ったのが立嶋篤史選手でした。立嶋選手は、たとえるならボクシングの辰吉丈一郎選手をさらに気難しくしたようなキャラ。相手がどんなに年上で大物であろうとも、「タメ口」で生意気な口をきく、そんな人物でした。
面白がったメディアが立嶋選手にスポットを当てると、立嶋選手とは正反対の貴公子然とした前田憲作選手などの対抗馬も日の目を見るようになり、キックの試合会場にも多くの観客が戻ってきたのです。
さらに、90年代初頭にはあのK-1が旗揚げされ、キックボクシング界は再び華やかなブームを迎えます。ヘビー級のみだったK-1も、興行の成功に伴い中量・軽量級を加え、魔裟斗選手のような新時代のスターを生み出す土壌となりました。
以後、新団体の設立やムエタイの交流が加速するなど、キックボクシング界は百花繚乱の新たな局面を迎えて今に至っています。

まとめ

キックボクシング誕生の歴史は非常に謎が多いとされています。記録がほとんど残されておらず、関係者の過去のインタビューがわずかに残る程度です。 ただ、沢村忠選手から始まった黄金期が低迷期を迎え、K-1などの新しい流れから再びブームを迎えるという流れは、力道山から始まるプロレスの歴史と酷似しています。 1つの格闘技が市民権を得るには、スター選手や革新的な興行主の存在が不可欠なのかもしれませんね。