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ボクシングだけでなく差別とも戦った“モハメド・アリ”の功績と人生

2017 1/30 21:11
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出典: Stamptastic / Shutterstock.com

ボクシング界においてもっとも有名で人々に影響を与えた“モハメド・アリ”。 「蝶のように舞い、蜂のように刺す」という彼のスタイルを表すフレーズはあまりにも有名だ。 リング以外でも“戦争”や“差別”と戦ったモハメド・アリの功績や人生を紹介する。

幼少期のモハメド・アリとボクシングとの出会い

1942年1月17日、アメリカのケンタッキー州ルイビルで生まれたモハメド・アリ。旧名は「カシアス・マーセラス・クレイ」。
彼のボクシングとの出会いは、12歳になったある日の出来事がきっかけだった。父親から誕生日に買ってもらった自転車を盗まれてしまったモハメド・アリは、宝物として大切にしていたこともあり、警察に盗難届けを出した。「ドロボウを見つけたらぶちのめしてやる」と泣き叫ぶ彼に対応した警察官がボクシングジムのトレーナーだったこともあり、その警察官の勧めでボクシングを始めることになったのだ。

始めてすぐにボクシングの才能が開花したモハメド・アリ

ひょんなことがきっかけで警察官の勧めによって始めることになったボクシング。モハメド・アリはジムに入門すると、わずか8週間でアマチュアボクサーとしてリングに上がる。
初戦は同じく新人のロニー・オキーフ。モハメド・アリは見事初戦を判定勝ちで勝利する。その後もケンタッキー州で開催された試合で数々の優勝を果たし、1959年から全米大会を2年連続で制し、ローマオリンピックの代表選手に選ばれることになった。

オリンピック出場とチャンピオンになったモハメド・アリ

1960年に開催されたローマオリンピックでは、ヨーロッパチャンピオンを破って初出場で金メダルを獲得。そして同年10月にはプロデビューを果たし、タニー・ハンセイカーとの初戦も見事に勝利を収める。この時期にはネーション・オブ・イスラム教に信仰心があることを公表し、リングネームを宗教に由来したモハメド・アリに改名。
その後、1962年に元世界ライトヘビー級王者のアーチー・ムーアと戦い、4RでKOで勝利。翌年にはWBCとWBAの統一世界ヘビー級王者であるソニー・リストンと対戦。周囲は圧倒的にリストンの勝利を予想していたが、モハメド・アリは「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と宣言し、6ラウンドTKOで見事勝利を飾ってチャンピオンになった。

約4年ものブランクからの復活を目指したモハメド・アリ

世界王者となり、本名もモハメド・アリに改名。しかし、1960年に勃発したベトナム戦争にアメリカが参戦を決定。その徴兵を拒否したことから王座を剥奪。ライセンスも失ったモハメド・アリは、リングではなく法廷で戦うことになる。 4年間にわたり法廷で戦い続け、1971年に無罪を勝ち取り、同年には世界ヘビー級王座に挑戦したが、ブランクの壁は厚く敗北。
しかし、諦めることなくトレーニングを重ね、1974年に王者ジョージ・フォアマンに挑戦。ブランクと年齢的なハンデもあったが、それらをはねのけて勝利を収めた。相手が史上最高のハードパンチャーだったこともあり、勝利は不可能と見られていたため、“キンシャサの奇跡”と呼ばれた名試合になった。

引退後も世界に影響を与えたモハメド・アリ

モハメド・アリは、引退した後にパーキンソン病にかかって闘病生活を送り、2016年6月3日に74歳でこの世を去ることとなった。
ベトナム戦争の徴兵を拒否したというよりも“反戦”を訴えた彼の言葉や行動は、世界から注目を浴びた。また、当時のアメリカ社会には黒人差別が根深く残っており、そういった“人種差別”に対しても批判的な発言をした。 それらの言動は、最初こそ社会からは認められなかったが、やがては公民権運動などに発展し、「オットー・ハーン平和メダル」を受賞。また、彼には後世に残る名言が数多くあり、ファンの心の中でいまだ根強く生き続けている。

まとめ

モハメド・アリの功績や人生を紹介した。 彼の行動は人々に勇気を与え、“差別”や“反戦”を考えるきっかけにもなった。また「蝶のように舞い、蜂のように刺す」という彼のスタイルを象徴するフレーズが有名だが、他にもさまざまな名言が残っている。 最後に彼の名言のひとつ「私は神話を作り、神話の中で生きる」というで言葉で締めくくりたい思う。