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日本ボクシング界のレジェンド、ファイティング原田の功績

2016 10/24 19:31
ボクシング
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出典 Luigi.glp/Shutterstock.com

1960年代に活躍した日本ボクシング界のレジェンド、ファイティング原田。 世界的にも高い評価を得た彼の功績を紹介する。

ファイティング原田の生い立ち

ファイティング原田(本名・原田政彦)は、1943年4月5日に東京都世田谷区で生まれる。中学校在学中に友人の誘いでボクシングを始め、笹崎ボクシングジムに入門。米穀店で働きながら猛練習を続け、1960年には17歳でフライ級の東日本新人王に輝く。
序盤からのラッシュには定評があり、1962年にはデビューから25連勝という記録を打ち立て、その年の10月には世界フライ級王座に初挑戦、王者のポーン・キングピッチ(タイ)にKO勝ちし、19歳で世界王者を獲得した。

日本人初の2階級制覇という功績

1962年に世界フライ級王者に初挑戦して勝利、王者になったファイティング原田だが、3か月後の再戦できわどい判定での判定負けを喫し、王座から陥落する。この試合の後、減量苦もあったため、バンタム級に転向する。
転向後はKO負けを喫するなど苦しむが、再起を果たし、1965年5月に世界バンタム級王者エデル・ジョフレ(ブラジル)に挑戦する。下馬評は圧倒的不利だったが、アウトボクシングに徹することで好勝負を展開し、僅差の判定2-1で勝利、日本人初の2階級制覇を達成する。

ボクシング人気を支えたファイティング原田

アメリカのボクシング雑誌で「狂った風車」という異名を付けられるほど、印象的なラッシュで戦うファイティング原田は、ボクシング人気を支える存在でもあった。
1965年11月のアラン・ラドキン(イギリス)との初防衛戦では視聴率60.4%、1966年5月のエデル・ジョフレとの再戦となった2度目の防衛戦では視聴率63.7%と、驚異的な数字をたたき出した。 他にもタイトルマッチで視聴率50%超えを4試合も記録しており、日本のテレビ史上に名前を刻む存在になっている。

減量のエピソードもかっこいいファイティング原田

ファイティング原田は体重が増えやすい体質だったこともあり、減量との戦いもかなり大変だった。そのため、フライ級でデビューした後はバンタム級、フェザー級と階級を上げていくしかなかった。
試合が近づき減量が始まると、原田が水を飲めないようにするため、ジムの水道の蛇口はすべて針金で固定されるという徹底した管理が行われた。トイレの水すら飲みたくなるような減量地獄を乗り越え、スーパースターは戦い続けた。ちなみに、このエピソードは漫画『あしたのジョー』の力石徹の減量シーンで採用されている。

ファイティング原田の引退後

国内タイトルは東日本フライ級新人王、全日本フライ級新人王を獲得、世界タイトルはWBA世界フライ級王座、WBA世界バンタム級王座、WBC世界バンタム級王座を獲得したファイティング原田だが、減量に苦しみ、1968年に王座を陥落。フェザー級に転向するが、1970年1月の試合を最後に引退する。
引退後はファイティング原田ジムの会長を務めながら、第10代日本プロボクシング協会の会長に就任。現在は顧問という立場についている。ボクシング解説でも人気だが、世界的な評価も高く、世界ボクシング殿堂入りも果たした。

まとめ

日本ボクシング界のレジェンド、ファイティング原田の功績を紹介してきた。 ボクシングの解説などで人気だが、現役時代は日本中が熱狂するスーパースターだったのだ。

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