戦後復興の起爆剤だった公営競技
太平洋戦争の終戦後、敗戦によって疲れ切っていたのは国民だけではなく、地方自治体の財政も同様でした。
日本には5つの公営競技があり、ボートレースは、中央競馬、地方競馬、競輪、オートレースに次いで一番新しい競技です。他の競技と同様に、直接収益分配があるので、自治体にとって財政再建の基礎となるものだったことでしょう。新しいといっても戦後の復興財源というように、初めての開催は昭和27年4月6日で、長崎県の大村ボートレース場にて行われました。「モーターボート競争法」が制定公布されたのが昭和26年6月18日でしたので、公布後1年とかからずにボートレースは始まったのです。
広がるボートレース
昭和27年4月の長崎県の大村ボートレース場での初開催を皮切りに、ボートレース場は急速に増えていきます。
昭和27年だけでも8場、翌年昭和28年にはさらに7場が西日本で初開催を迎えました。そして、大村ボートレース場の初開催からわずか5年ほどで、現在と同じ24場でレースが行われるようになったのです。そうなると、操縦する選手や、レースを運営する審判員等も多数必要になるわけですが、「モーターボート競争法」が制定公布されてからわずか2か月後の昭和26年8月には「琵琶湖国際モーターボート選手審判員養成所」において選手・審判員の育成を始めたことも、短期間での広がりを可能にしたのでしょう。
盛り上がるボートレース場
戦後で娯楽が少なかったことや、東京オリンピックでの好景気もあり、舟券の売り上げは毎年増えていきました。それらの収益は、自治体の財源となることで施設にも投資され、観戦環境の良くなったレース場にはさらに多くの人が来場するという好循環をもたらしたのです。
昭和41年には「本栖厚生施設水上スポーツセンター(本栖研修所)」が開所し、選手や審判員の育成にもますます力が入れられるようになりました。そして昭和50年度には、中央競馬も含めた公営競技において売上高がトップになったのです。
人気の低迷
戦後も40年ほどたってくると、世の中にはたくさんの娯楽ができ、公営競技の人気にも陰りが見え始めました。ボートレースにおいても同じで、平成3年度、史上最高の2兆2000億円を売上高を記録した後は、年々下降の一途をたどったのです。そこで、かつての賑わいを取り戻すために、様々な改革を行うことにしました。平成9年には、今までばらばらだった呼称を「競艇(Kyotei)」に統一し、平成22年からは「BOAT RACE」としたのです。
新しい時代に向けて、新しい「BOAT RACE」を!
改革を始めてからのボートレースは、常に業界最先端とも言えるいろいろなことを導入してきました。
マークカード方式の投票やナイター開催を始め、どこにいても全レースの舟券が買える電話投票発売のほか、平成13年度には、公営競技界で初めてインターネット投票での発売を始めたのです。最盛期には控えていたファンとの交流も増やし、レース場を改装したり様々なイベントを催すことで、今まで敬遠していたであろうファミリー層など、新しいファン層へのアピールにも努力しています。
まとめ
いかがでしょうか。戦後から長く行われている公営競技にもかかわらず、その時代時代に合わせて柔軟に変化し続けている「BOAT RACE」。今では365日毎日、日本中のどこかでレースが行われています。興味が出たらぜひ、レース場に足を運んでみてはいかがでしょうか。