それは、家族を助けようという気持ちから始まった
―そもそも、植木さんは、なぜボートレーサーに挑戦しようと思ったのですか?高校を中退されてボートレーサー養成所(当時:本栖研修所)の試験を受けていらっしゃるようですが。
植木氏:父が、建設会社を営んでいたのですが、私が高校に通っていた頃、不況のあおりで経営が苦しくなったんです。私は長男なので、「家族を助けるにはどうすればいいか?」と考えていました。生まれ育った北九州地方はボートレースが盛んだったこともあり、たまたまボートレース場で、17歳からボートレーサーの試験が受けられる(当時)ということを知り、また賞金も結構高いことを知って、受けてみようと思いました。
―ボートレースそのものへの興味は?
植木氏:その頃ははっきり言って、なかったです。家族を助けようという気持ちでしたね。家族からは反対されましたが、「1回だけ挑戦」を許してもらい、合格できたので養成所に入りました。高校は休学扱いにしてもらいました。いろいろ不安があり、養成所で自分が耐えられるかどうかも自信がなかったんです。しかし、養成所にいるわけですし、寮生活にも慣れ、結局中退しました。ボートレーサーを引退してから、通信制で高校卒業の資格を取りました。
ボートレーサーになってからボートレースが好きになったというような感じですね。
―ボートレーサーは、相当な身体能力が必要だと思います。そういうことに自信はあったのですか?
植木氏:小さい頃からスポーツ全般は何でもある程度できました。また、高校の頃は野球をやっていましたから、体力もありました。野球をやってチームワークの大切さは身についていたので、寮生活にも対応しやすいという部分もあったと思います。
大けがから復活、「不死鳥」への道
―そうしてボートレーサーとしてデビューされるわけですが、植木さんが、まだキャリアの始めの頃、レースで大けがをされましたよね。
植木氏:大けがは3年目でした。顔面を75針も縫う縫合手術と、小鼻に頭がい骨の一部を移植するという2回の大きな手術をしなければなりませんでした。そのとき、病院の先生を初め、ほんとうにたくさんの方にお世話になりましたし、助けていただきました。
―そこからボートレーサーとして復帰されるわけですが、その頃はどんなことを考えていらっしゃいました?
植木氏:元々、家族を、家計を助けようという気持ちでボートレース界に挑んだのですが、大けがによって気持ちがリセットされましたね。性根を据えてボートレーサーとして取り組まないといけないとも思いましたし、簡単な世界ではないこともよくわかりました。
―植木さんは復帰後、あっという間に一流レーサーになられた印象が私にはあります。だから「不死鳥」などとも呼ばれているわけですが、どうしてそんなに短期間で?
植木氏:ありがとうございます。手術の後、病院の先生から、「これだけの大けがだから、今後何年できるかわからない。後遺症もあるかもしれない」と言われたんです。ちょうど20歳のときです。それで思いました。それじゃあ、どれだけできるかわからないけど、あと20年がんばる気持ちでやってみようと。
今までの人生20年分の砂時計をひっくり返すような気持ちとでも言ったらいいんでしょうか。だから時間を無駄にはしないよう心掛けました。たぶん、他の方より現役でやれる時間は少ないだろうと思いましたので。技術を習得するためには練習以外なく、懸命に練習しました。それが結果に繋がったのでしょう。

トップレーサーとなって初めて知った世間の見方と決意
―次々にタイトルを獲得し、賞金も得るようになるわけですが、トップレーサーになってからの植木さんのレースに取り組む姿勢はどうだったのでしょうか?
植木氏:大けがをしたことによって、皆さんに助けられて生かしてもらったという気持ちが私にはあります。「賞金を稼ぎたい」ところから始まった私のボートレーサーとしての人生ですが、ボートレーサー植木通彦として、何か皆さんに還元できることはないかと考えながらレースに出ていました。
また、活躍できるようになってからは、ボートレースが単なるギャンブルとしてではなく、ボートレーサーがプロ野球選手やプロサッカー選手と同じような競技者として見てもらえるようになるためにはどうすればいいか、考えるようになりました。
―そう考えられたのは、何かきっかけでもあったのですか?
植木氏:1996年に公営競技で初めて年間獲得賞金2億円を突破して、プロスポーツ大賞の表彰を受けたときですね。胸を張って表彰式会場に行ったのですが、他のプロスポーツ選手と私とでは、マスコミからの写真撮影のフラッシュの回数が全然違っていて、愕然としたんです。
「ボートレース界では写真もたくさん撮られるし、取材もされるのに、他の多くのプロスポーツ選手と同席したら、ほとんど相手にされない。これは…何だ!?」と、ショックは大きく、ガックリと肩を落として帰りました。
―それ以降、植木さんの中で何か変わりましたか?
植木氏:例えば優勝し、インタビューを受けたりした後ですね。自分の走りについて、レースについて、「ファンの方に対して、あんな話でよかったのか?」とか、「ボートレースの魅力が伝わったのか?」というようなことを考えるようになりました。「今度は、こんなふうに答えよう」とか。それがいいことか、悪いことかはわかりませんが、レーサーとしてそこからの約10年はいつもそんなことを考えていましたね。
現役引退から、現在まで
―植木さんは現在、振興会(一般財団法人BOAT RACE振興会)のアンバサダーを務めていらっしゃいますが、現役を引退されてから、しばらくは指導者をされていたと伺っています。
植木氏:引退後、1年ほどは、どこにも所属せず、地元の福岡にいたのですが、ボートレーサー養成所が福岡県の柳川市にあるので、指導の手伝いをしてくれないかと言われ、他の仕事の傍らで手伝っていました。その後、本格的に養成訓練の内容を見直していかなければということになり、養成所は競走会(一般財団法人日本モーターボート競走会)がやっているので、競走会に入りました。
当時、ボートレーサー経験のない教官もいるなど指導者自体が不足していて、そういう人を一人前の指導者にしてほしいと言われ、指導者の育成や、養成訓練のできる環境作りが、私の主な仕事でした。ですから、指導者というより、養成所の運営に携わったわけで、生徒から「植木教官」と呼ばれるようなことはなかったです。最初は苦労もしましたが、やりがいはありました。
―何年間なさったのですか?
植木氏:後に、校長も務めました。合計9年です。
―それからボートレースアンバサダーになられたわけですが、そのきっかけは?
植木氏:私は、競走会に入ったとき、養成所の改革と、もう一つはボートレース界の広報、宣伝をしたいと思っていました。養成所で9年、務めさせていただきましたが、広報、宣伝をするためには、競走会より、振興会のほうがいいと考えていました。そうしたらアンバサダーという役職をいただいたんです。2018年のことですね。ボートレースとファンを繋ぐ橋渡し役が任務であります。
―ということは、植木さんとしては、引退後、ご自分でやりたいと思っていたことは、行動に移せているということですか?
植木氏:ええ。でも、養成所の改革もそうでしたが、アンバサダーも先任者がいないので、自分で正しいと思って実行しようとしたとき、「それがほんとうにいいことなのかどうか」を評価するものが無いという難しさ、不安は常にあります。とにかく、走り続けないといけないと思っています。
でも、一つ、心掛けているのは「ボートレース界をメジャーにする」という目的はあるのですが、自分が目立ってはダメだということです。あくまで主役となるのは今のレーサーとファンの方々ですから。そうして、周りの方々と、一緒に手を携えて、5年、10年続けていけば、ボートレース界も、また世間の見方も変わってくるのではないかと思っています。
それから、皆さんに是非知ってほしいのは、日本財団(公益財団法人日本財団)を通じた社会貢献活動です。昨今、日本各地で起きている自然災害には、いの一番で、スピード感を持って支援活動をしています。今年についていえば、新型コロナウイルスによる影響が甚大な医療関係への資金支援を行っています。こういった活動ができるのはもちろん、ボートレースファンの皆様のおかげです。そのような活動をしていることも、皆さんに知っていていただきたいです。ボートレース業界の社会貢献活動についてはボートレースオフィシャルや振興会のHPにも載せています。ぜひご覧になってください。
BOAT RACE オフィシャルウェブサイトhttps://www.boatrace.jp/
植木通彦氏プロフィール
福岡県北九州市出身。1986年に福岡競艇場(現ボートレース福岡)でデビュー。1989年、レース中の事故で重傷を負うも、同年、レースに復帰。1996年、公営競技初の年間獲得賞金2億円を達成。2007年7月引退。通算成績はSG優勝10回、GI/PGI優勝23回、GII優勝3回、GIII優勝7回、一般戦優勝31回、通算勝利数1562勝、出走4500回。引退後は2008年より一般財団法人日本モーターボート競走会の理事職に就任。2012年4月にボートレーサー養成所やまと学校の学校校長に就任。2018年6月からBOAT RACE振興会のボートレースアンバサダーを務める。