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NBAのレジェンド、ラリー・バードの功績を振り返る


larry bird

Photo by lev radin/Shutterstock

80年代のNBAを席巻したラリー・バード選手。長年マジック・ジョンソン選手とライバル関係にあり、幾多の死闘を演じた。最近のNBAファンにもしってほしいラリー・バードの功績を紹介する。

浮き沈みの激しいラリー・バードの大学時代

1956年にインディアナ州のウエストバーデンで6人兄弟の4番目として生まれたラリー・バード選手は、高校時代に頭角を現すと、大学は闘将ボビー・ナイト率いる強豪インディアナ大学に進学した。しかし、バード選手は学校に溶け込めず、わずか1か月で退学、清掃員として働きながら地元の短大に入りなおす。
その後、バード選手はインディアナ州立大学に編入、1年目は制限がかかってプレーできなかったが、その後の3年間で平均30.3得点、13.3リバウンドを記録。4年時にはNCAAトーナメント決勝に進み、マジック・ジョンソン選手擁するインディアナ州立大学と対戦、敗れたもののアメリカ全土に名が知れ渡ったのだった。

NBA加入後すぐにスーパースターへ

バード選手のNBAの加入の仕方も波瀾万丈だった。
インディアナ州立大学3年時の1978年のドラフト、ボストン・セルティックスの社長兼GMレッド・アワーバック氏は、バード選手が最初のインディアナ大学入学から4年目だったこととドラフトの規則の盲点を突き、強硬に指名した。バード選手はインディアナ州立大学卒業後の翌シーズンからプレーすることになる。バード選手はセルティックスでの1年目、前年29勝53敗だったチームを、61勝21敗に引き上げ新人王に輝いた。
また、オールスターファーストチームにも選ばれ、苦労人バードはスーパースターの仲間入りを果たしたのだった。翌1980-81年シーズンにはセルティックスを5年ぶりのNBAチャンピオンに導く。

ラリー・バードの絶頂期

1983-84年シーズンはラリー・バード選手にとっての最高のシーズンの1つだ。
セルティックスはリーグ最高の62勝20敗、バード選手自身は、シーズン平均24.2得点、6.6アシスト、10.1リバウンドを記録し、シーズンMVPに輝いている。さらにセルティックスは、プレーオフで、ワシントン・ブレッツ、ニューヨーク・ニックス、ミルウォーキー・バックスを下し、NBAファイナルに進出。ファイナルの相手は大学時代NCAAの決勝で戦ったマジック・ジョンソン選手擁するロサンゼルス・レイカーズ。セルティックスは4勝3敗でレイカーズを下し優勝した。
バード選手はシリーズ平均27.4得点、14リバウンドを記録してシリーズMVPにも輝いている。

ラリー・バードの選手としての功績

1983年-84年に最高のシーズンを送ったラリー・バード選手は、翌年、翌々年とシーズンMVPを3年連続獲得、1984年と1986年にはファイナルMVPも獲得している。オールスターゲームにはかかとを故障し、シーズンのほとんどを棒に振った1988年-89年シーズン以外毎年出場した。
長年マジック・ジョンソン選手と名勝負を繰り広げてきたラリー・バード選手だが、キャリア中盤からは背中の痛みに苦しむ。1991年-92年シーズンは45試合しか試合出場できず、92年のバルセロナ・オリンピックのドリームチームに参加した後、引退する。

名選手名監督になる

ラリー・バード選手は、引退後しばらくは家族とゆっくりした生活を送っていたが、1997年-98年シーズンから、生まれ故郷のインディアナ・ペイサーズのヘッドコーチに就任する。バードコーチは選手を教え諭すスタイルと規律を持ち込んで、前年39勝43敗で低迷していたペイサーズを、58勝24敗と躍進させた。さらにプレーオフはマイケル・ジョーダン選手擁するシカゴ・ブルズに敗れたもののカンファレンス・ファイナルまで導き、最優秀監督賞を受賞した。
結局3年間監督として好成績を残したバードコーチだったが、最初から3年と決めていたという理由で、退任した。その後バード選手は、2003年に久しぶりにインディアナ・ペイサーズに社長として復帰した。

まとめ

NBAのレジェンド、ラリー・バード選手の功績を振り返った。バード選手は苦労人だが、大きな功績をNBAに残している。変化の多い彼がこれからどんな人生を歩んでいくのか注目して見ていきたいと思う。

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