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引退の寺原隼人「優しすぎた」 プロ18年間で36死球

2019 11/21 06:00楊枝秀基
引退した寺原隼人ⒸSPAIA

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高校生最速右腕としてプロ入り

引退して改めて思うことがある。

「もっと、相手打者に対して強気に攻められる精神力があったら、何かが変わったかな」

そう振り返る声の主はダイエー、ソフトバンク、横浜、オリックス、ヤクルトで18年の現役生活を終えた寺原隼人元投手(36)だ。2001年夏の甲子園で157.7キロ(アトランタ・ブレーブススカウト計測、球場表示は154キロ)をマーク。一気に高校生史上最速右腕として話題になった。

当時の記憶が鮮明に残っている野球ファンも多いことだろう。宮崎・日南学園のエースとして松坂、新垣を超え、当時の高校生最速記録を塗り替えた。巨人、中日、横浜と4球団競合の末にダイエーにドラ1で入団。翌2月に地元の宮崎で行われた春季キャンプには寺原見たさに10万人以上のファンが押しかけ「寺原フィーバー」が巻き起こった。

一気にプロで開花とはならなかったが、着実に実力をつけていった。「技術とかそういうのは、プロに入ってからでも練習すれば上手くなるし、トレーニングを重ねれば球も強くなる」というように地道に力をつけた。プロ入り最初の5年間で16勝と中々波に乗れなかったが、横浜にトレードされた2007年にブレークした。

12勝挙げても物足りなさ

27試合に登板し12勝12敗。184回2/3を投げ防御率3.36と初めて規定投球回数をクリアした。翌2008年には守護神として3勝22セーブと投手としての引き出しを増やした。

ただ、本人としてはジレンマもあった。潜在能力プラス練習、経験で制球力も備わりプロの投手として完成形に近づいてはいった。だが、何かが物足りなかった。

「メンタル面でいえば強気な性格とか、逃げ腰な性格というのは人間として中々に変えられるものではない。自分はそういうところが弱かった。打者にぶつけてしまっても平気な顔してられるくらいの強さがあれば、僕も少しは変わったかな」

オリックスに移籍した2011年は自身2度目の2桁勝利も経験した。25試合に登板し12勝10敗。このシーズンは170回1/3を投げ与四球43とまとまった大人の投手として成績を残した。プロ11年目、ついに投球スタイルを確立した。

さらなる進化を志し2013年にはFAでソフトバンクに復帰。プロとしての集大成を図った。「地元の九州に帰って、自分にとって良かれと思って移籍しましたけど、選手層が厚くて僕の出場機会がないですよ」と話しながらも懸命に右腕を振り続けた。

中田賢一は15年で89死球

2014年4月16日には楽天から勝利を挙げ、工藤公康、杉内俊哉に次いで史上3人しかいない近鉄と楽天を含む全13球団から勝利した投手となった。だが、その時期に右膝を痛め手術を経験するなど、本来の投球をできない自分に苦しみ始めた。

最終的には今季のヤクルトでの2勝を加え、18年間で先発、救援で303試合、1205回を投げ73勝81敗23セーブ、防御率3.88。「優しすぎる」と言われた性格を表す数字は通算36死球という少なさだ。

比較するタイプの選手として最適かは確証はないが、ソフトバンクで同僚だった阪神・中田賢一と比べてみよう。2019年シーズンまでで15年、1539回2/3を投げ100勝77敗1セーブ。2度の2桁勝利を挙げておりキャリアとしては似ている。

ただ、「暴れ馬」と称されたように89死球と寺原の倍以上を記録している点は大きな相違。これが100勝に直接につながったかは証明のしようがないが、無関係とも言えないはずだ。

寺原氏は沖縄初のプロ野球チーム「琉球ブルーオーシャンズ」のコーチに就任することが発表された。

「いろんな球団に在籍させてもらって、セ・パ両リーグでもプレーさせてもらった。これは、他の人には経験できないこと。練習一つとっても、やり方から場所から、内容、道具、設備までみんな違う。恵まれている球団もあれば、恵まれない中でも工夫しながらやっている球団もある。高校球界も含め、これからも野球に関わった仕事をしていきたいですが、他にもいろんな経験をしてみたい」

野球では「優しさ」がネックになったが、今後は「優しさ」が産み出した「人望」が寺原氏の武器となるはずだ。

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