広島東洋カープが「赤ヘル軍団」に
1975年、広島東洋カープは昨年までコーチを務めていたジョー・ルーツを球団初の外国人監督として就任させました。昨年の成績がリーグ最下位だったこともあり、ルーツ監督は「もっと情熱を前面に出そう」といって赤色のユニフォームを提案しますが、すでにデザインが決まっていたため、すぐに変えられる帽子とヘルメットだけが赤に変更されました。
開幕から1か月もたたないうちにルーツ監督は審判とトラブルを起こし退団してしまいますが選手は奮起、「赤ヘル軍団」と呼ばれるほどに暴れまわります。
広島東洋カープ、リーグ初制覇
ルーツ監督が退団後は古葉監督が後を継ぎ、残りのシーズンを戦うことになりました。ルーツが叩き込んだ闘争心を選手は存分に発揮して、中日、阪神との熾烈な優勝争いを演じます。
そしてついに10月15日、巨人を下して球団の創立から25周年にリーグ初優勝を達成。この年は山本浩二、衣笠祥雄が大活躍、オールスターゲームで二人とも1試合2本塁打を記録して旋風を巻き起こしました。また、山本浩二はこの年のセ・リーグ首位打者と最優秀選手、ベストナインに輝いています。
広島東洋カープ、リーグ優勝の祝賀会
10月15日に悲願のリーグ初優勝を決めたその日に、宿泊していた東京・両国のパールホテルで祝勝会が開かれ、盛大に球団初のビールかけが行われました。報道陣を交えて、監督、選手、スタッフが遠慮なくビールをかけ合い、大変な盛り上がりを見せたようで、翌朝の中国新聞の朝刊には古葉監督に両側から抱き合って歓喜する、衣笠祥雄選手と山本浩二選手の写真が掲載されています。
また、早々に退団してしまったルーツ監督からも優勝した当日に祝福の国際電話があっただけでなく、数日後には祝福のために日本を訪れていたことがのちに明らかになっています。
広島東洋カープ、歓喜の優勝パレード
リーグ優勝決定から5日後の10月20日、広島市内の平和大通りで優勝パレードが行われました。沿道には広島市民85万人のうちの30万人が駆けつけたといわれています。その年は原爆投下から30年という節目の年でもあり、遺影を掲げてパレードを見守るファンの姿もみられるなど、戦争から復興する広島市民の心の支えとしても球団が重要な役割を果たしていることのわかる、印象深いパレードになりました。
このパレードで多くの人を動員したことをきっかけに、平和大通りでの「ひろしまフラワーフェスティバル」が構想され、1977年から実現して今日に至ります。
まとめ
いかがでしたか?親会社を持たずに、市民球団としてつくられたという独自の歴史を持つ広島東洋カープは、原爆投下から復興してきた広島の人たちにとって特別な存在だということがパレードの様子などからもよくわかりますね。
以上「広島東洋カープ、悲願の初優勝時の優勝パレード・祝賀会エピソード4つ」でした。