国鉄スワローズ誕生と金田正一入団
巨星墜つとは、まさにこのことだろう。 「カネやん」と親しまれ、「天皇」と畏れられた金田正一氏が10月6日、死去した。背番号34は巨人の永久欠番となっているが、デビュー以来15年間在籍し、不滅の大記録である400勝のうち353勝をあげた国鉄スワローズ(現ヤクルト)時代のことを記憶にとどめておきたい。
国鉄スワローズは日本国有鉄道(国鉄)の外郭団体が主体となり、プロ野球がセ・リーグとパ・リーグの2リーグ制となった1950年に誕生した球団だ。スワローズと名付けられたのは、戦後初の特急が「つばめ」で、国鉄のシンボルとなっていたからだ。
サンケイ新聞とフジテレビに経営権を譲渡し、サンケイスワローズと球団名を変更する65年途中まで15年ほどの間、セ・リーグの一員としてペナントレースを戦った、現在のヤクルトの源流と言える球団だ。
急遽参入で、有力選手はすでに他球団と契約を済ませていたことから、プロ経験者はほとんど獲得できなかった。このようなチーム背景もあり、他球団との間に大きな戦力差があり、設立当初から苦しい戦いを強いられた。
そんな国鉄球団設立1年目、シーズン途中の8月に享栄商(愛知)を中退し入団したのが金田だった。金田は全国高校野球選手権大会の県予選で敗退後、チームに加わり不世出の大投手として飛躍することになるのだ。
即戦力として8月23日にデビューした金田は、シーズン途中の加入にもかかわらず、30試合に登板して8勝(12敗)を挙げた。
田原基稔(札幌鉄道局=13勝22敗)、高橋輝(中央大=10勝15敗)、古谷法夫(コロムビア =9勝19敗)に次ぐ勝利数だったが、この年、国鉄で勝利を挙げた投手は、ほかには成田敬二(米子鉄道局=2勝13敗)だけだった。
翌年から金田は、エースとして国鉄を牽引していく。
チームが勝つためには金田が絶対に必要だった
ここでは1年の金田の登板数をチームの試合数で割った数字を「シーズン登板率」、金田の勝利数をチームの勝利数で割ったものを「勝利依存率」とした。

ⒸSPAIA
「シーズン登板率」は、51年から61年まで、53年を除いて4割を超えている。50%超えも3シーズンあり、およそ2試合に1試合は金田が投げていたことになる。
在籍15年トータルでの「勝利依存率」は42.4%。こちらも50%超えは3シーズンあり、チームの勝ち星の半分近くを金田が稼いでいたということになる。チームが勝つためには金田が絶対に必要だったとよくわかる。
国鉄は金田が巨人に移籍した年に姿を消すが、金田の奮闘も空しく、15年間の最高順位は61年の3位。いわゆるAクラスにはその年以外、入ることはなかった。
金田在籍時の国鉄戦士たちの成績は?
金田が在籍した、つまり国鉄がチームとして存在していた間、ということだが、投手の防御率10傑に入った投手は金田の14回を除けば延べ5人しかいない。

ⒸSPAIA
57年の田所善治郎(静岡商)は53年入団。64年までの12年間を国鉄で過ごした生え抜きで通算56勝を挙げた。60年、61年の村田元一(明治高)も57年に国鉄入団。通算118勝と活躍し、1969年アトムズ(名称は65年から68年までサンケイ)で引退した。
61年には金田とこの村田に加え、59年入団の北川芳男(日本ビール)の3人が投手10傑に入る。金田が20勝、北川が15勝、村田が14勝と3本柱の活躍が、Aクラスにつながったのだ。
金田が国鉄にいた間にリーグの打撃10傑に入った選手は延べ12人だ。15年で10傑に12人とはいかにも寂しい数字である。
野手に目を移すと、生え抜きで打率10傑に入ったのは54年と56年の箱田淳(弘志から改名、盈進商)、55年の町田行彦(長野北高)。町田はこの年31本塁打を放ち、国鉄史上唯一の本塁打王となっている。57年、60年の佐藤孝夫(仙台鉄道局)も52年入団の生え抜きで、国鉄球団ただひとりの新人賞受賞選手だ。63年の徳武定之(早稲田大)は61年入団。サンケイを経て68年に中日に移籍した。
その他の選手は移籍組だ。57年、60年の飯田徳治は南海から57年に移籍、その年に40盗塁で盗塁王を獲得した。岩下守道は59年に巨人から移籍、その年に.280の打率を残した。63年の豊田泰光は西鉄黄金時代を支えた「水戸の暴れん坊」で、移籍1年目だった。豊田も2006年に殿堂入りを果たしている。64年の小淵泰輔はその年、中日から移籍入団。引退はアトムズで迎える。
いずれにせよ15年間で主要な打撃タイトルを取ったのは町田・佐藤の本塁打王だけで、金田をはじめとする投手陣を支えるには国鉄の得点力は絶望的に低かった。年度別得点を見ると、ほぼ毎年、リーグの最下位近辺が定位置だったことがわかる。

ⒸSPAIA
「ずっと巨人で投げていたら600は勝っていた」と話したと伝えられる金田だが、巨人と対戦する必要がなく、強力打線をバックに投げていたら、あながち絵空事ではないかもしれない。
15年のうち14回20勝以上を記録し、「球界の天皇」と呼ばれた男、金田正一。国鉄を引っ張ったのは正しくこの男だったことは間違いない。