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鳥谷敬退団の阪神 「浪速の春団治」川藤幸三に向けた温情はなかったのか

2019 10/5 11:00本松俊之
阪神タイガースの鳥谷敬ⒸSPAIA
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ⒸSPAIA

生え抜き2人目の2000本超え 鉄人・鳥谷のチームへの貢献は

各球団から戦力外通告の選手が公表される中、阪神の鳥谷敬はシーズン途中に今年限りで縦縞のユニフォームを脱ぐことが決まった。阪神球団からの事実上の引退勧告だったと伝えられている。

2003年のドラフト自由枠で入団した鳥谷は、早稲田大学出身。東京6大学リーグで活躍し、自由獲得枠で阪神に入団。入団2年目には正遊撃手としてセ・リーグ優勝に貢献した。17年9月8日、プロ14年目で史上50人目の2000本安打を達成したが、阪神生え抜きでの2000本超えは後に阪神の監督も務めた藤田平以来2人目だった。

鳥谷 打撃成績ⒸSPAIA

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一軍公式戦1939試合連続出場(04年9月6日から18年5月29日)、13シーズン連続全試合出場(05年から17年)はいずれも歴代2位。獲得したタイトルは11年の最高出塁率のみだが、ベストナインに6回、ゴールデングラブ賞にも5回(17年は3塁手として)選出された。そんな鳥谷への球団対応には驚かされた。

川藤への2度の戦略外通告を撤回した阪神

鳥谷への球団対応が反響を呼ぶ中、かつて全く対照的な対応をした選手がいる。それが川藤幸三だ。

現在は解説者・タレントとして活躍する「浪速の春団治」こと川藤の出身は福井県。1967年、県立若狭高校のエースとして12年ぶり2度目のセンバツ出場を果たした。1回戦で報徳学園(兵庫)に1-9と大敗したがこの試合で川藤は三角筋断裂の負傷をし、その後は投手を断念。北陸大会で羽咋(石川)を降して出場権を得た夏の選手権には4番左翼手として甲子園に登場したが、武相(神奈川)に0-3と完封負けを喫した。

甲子園では春夏ともに1回戦で敗れたが、俊足強打の野手として期待された川藤は、ドラフト9位で阪神に入団。68年のプロ入り1年目に遊撃手として1軍デビュー。3試合に出場し初安打が本塁打だった。この年、セ・リーグを制したのは黄金時代を迎えつつあった巨人で4連覇を達成。阪神は5ゲーム差をつけられての2位だった。なお、江夏が空前絶後の401奪三振という大記録を打ち立てたシーズンでもあった。

プロ入り3年目の70年は7試合に出場したが、すべて代走での起用。俊足の選手だったことがうかがわれる。その後はなかなか1軍に定着できなかったが、74年にはキャリアハイの106試合に出場。打率は2割に届かなかったものの、20犠打はこの年のリーグ最多記録だ。代走での起用や多くの犠打は、後の川藤のイメージからは想像し難い。ちなみに、73年と74年の9盗塁はチーム最多だった。

75年にアキレス腱断裂に見舞われたため代打に活路を求めた川藤は、78年から81年まで4年連続で打率が3割を超え、代打の切り札的存在に。しかし、82年からは成績は下降。34歳となった83年オフには戦力外通告を受けた。川藤が「給料はゼロでも良いので続けたい」と球団に訴え一軍最低保証額の年俸で契約更改をしたことは、いまだにファンの間で語り草になっている。

84年は62試合に出場し、キャリアハイの20打点をあげて意地を見せた。21年ぶりの優勝を遂げた85年は、当時監督だった吉田義男が「出場機会がなくてもチームにとって必要な存在だ」として川藤をベンチに置き続け、優勝の胴上げで監督の次に宙を舞ったのは川藤だった。しかし、その年のオフに2度目の戦力外通告を受けた川藤。粘りの交渉で何とかチームに残留し、現役最後の年となった86年には前年の優勝監督としてセ・リーグを率いた吉田の粋な計らい(監督推薦)で、オールスター戦にも出場した。

ファンはもちろん、おそらく球団からも選手としての成績よりも、その存在感で愛された川藤。18年間の現役生活で放った安打は211本。チームでの立場は大きく違うが、川藤との契約を続けた阪神であれば、2085本の安打を積み重ねた鳥谷の処遇をもっと考えても良かったのではないかと思う。

川藤 打撃成績ⒸSPAIA

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