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胃がん克服した広島・赤松が初めて漏らした弱気な言葉

2019 9/28 11:09楊枝秀基
赤松は広島ファンから愛されたⒸSPAIA
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ⒸSPAIA

「準備だけはしておきます」

今シーズン序盤、ゴールデンウイークの頃だった。広島・赤松真人に取材のため連絡を取ると、気になるコメントが返ってきた。胃がんを克服しグラウンドには戻ってきた。だが、未だ1軍でプレーするという目標は達成できていなかった。そんな中でのやり取りだ。

その時点での調子を問うと「元気ですよ。体は動くし問題ないです」と即答。だが、少し間を置いて「今年は出場機会がかなり減っています。若い選手に経験を積ませないといけないチームとしての事情もある中でのことですが…。うーん。なんて言ったらいいんでしょうね。どんな状況でも準備だけはしておきます。周りからも支えてもらっているので」と、弱気な言葉を漏らしたのだ。

がんを患っても球団から「戦力と考えている」と3度の契約更改を行ってきた。だが、赤松本人は「戦力と言ってもらっていますが、1軍でこれまでと同じようにプレーできて初めて戦力。早くその状態に戻りたい」ともどかしさを感じ続けてきた。

今季はウエスタン・リーグで49試合に出場し33打数4安打、打率.121、2盗塁。本人が納得いくものではなかっただろう。

赤星も認めた走力でファーム4冠

記憶に残る選手だった。2005年の阪神入団直後には中学時代に歌手の倖田來未と同級生だったことを明かし、「どっちが先に有名になるかって昔から話していた。向こうがだいぶ先をいってますけどね」と周囲を和ませてくれた。

1軍では2試合の出場にとどまったが、ウエスタン・リーグでは打率.363、29盗塁など首位打者、盗塁王、最高出塁率、最多得点に輝いた。当時、不動の1番打者で盗塁王だった赤星憲広は「実際に普通にまっすぐ走れば僕より赤松の方が速いですよ」と、赤松の脚力を認めていた。

07年オフには広島・新井貴浩の阪神へのFA移籍で人的保障として広島へ移籍。当時の阪神・岡田彰布監督は「痛いとこいかれたわ。ルールやからしゃあないけどなあ」と流出を嘆いた。

史上初めてプロ1、2号が連続先頭打者本塁打

ただ、赤松にとってはここが分岐点だった。2008年4月29日の巨人戦(東京ドーム)でプロ初本塁打となる初回先頭打者アーチを放つと、翌30日にも2試合連続の先頭打者本塁打。プロ1、2号を2試合連続初回先頭打者本塁打で記録し、プロ野球史上初の偉業となった。

2010年8月4日の横浜戦(マツダ)では村田修一の左中間へのホームラン性の大飛球をフェンスによじ登って好捕。これは海外でも大きく報道され「スパイダーマン」と騒がれた。

通算136盗塁、成功率79.1%

赤松が野球選手として誇れるのは盗塁成功率の高さだろう。通算136盗塁と突出して多くはないが、36の失敗で79.1%。勝負どころでの代走起用が多く、バッテリーから警戒された中での数字とすれば高いと言える。

単純には比較できないが、通算1065盗塁のプロ野球最多記録を持つ福本豊氏でも、成功率は78.1%だ。胃がん発覚前の2016年は12盗塁、失敗2で成功率.857と、カープのリーグ優勝に大きく貢献した。

阪神で3年、広島で12年の現役生活を全う。今季最終戦となった9月27日の中日戦(マツダ)では、盛大な引退セレモニーで送り出された。始球式では2人の息子と共演。自らは捕手を務め長男のボールを受けた。3点ビハインドの九回には中堅の守備で出場し、1091日ぶりの一軍出場。スタンドから万雷の拍手を浴びた。

菊池と抱き合い号泣

試合後にはマイクの前でスピーチ。「それまでは当たり前だった応援が、自分が(ガンを患い)当たり前の状況ではなくなった時、応援は絶大なパワーだと気づかされました。この応援がなければ、きょう僕はここに立っていなかったと思います」などとゆっくり言葉を選びながらファンへ現役最後のメッセージを届けた。

可愛がっていた後輩・菊池から花束を贈られると抱き合って号泣しあった。ナインとの記念撮影、5度の胴上げ、グラウンド内を一周とセレモニーが進む中、一瞬を惜しむように歩を進めた。

「1軍に上がれないまま引退試合になってしまって申し訳なかったです」

そんなことはない。野球にも病気にも正面から向き合った赤松の姿は、野球ファンのみならず多くの人に勇気と感動を与えたに違いない。