指名順最下位から伝説は始まった
「幕張の安打製造機」「俺たちの福浦」と呼ばれ、千葉のファンに愛され続けたロッテ・福浦和也が、今季限りで現役を引退すると、球団から発表された。
かつて、ロッテファンにこれだけ愛された選手がいただろうか。千葉に愛され続けて25年。今季で26年目を迎える福浦が、ついにユニフォームを脱ぐ決断をした。
ロッテが本拠地を千葉に移転した翌年の93年ドラフト会議で、地元の習志野高校出身の福浦が指名される。しかし、指名順は全64選手中最下位の64番目でドラフト7位。当時、福浦が千葉の伝説になることを誰が予想しただろうか。
2000本達成、夕焼けに響く福浦コール
福浦が引退を決断した理由の一つに、昨季の2000本安打達成もあるだろう。筆者はZOZOマリンスタジアムのライトスタンドで、その瞬間を運良く目の当たりにすることができた。
その試合(西武戦)は先発出場するも、第3打席までノーヒット。マリンに夕日が差し始めた頃、8回の裏の第4打席に向かった福浦。どこかに「今日はダメか…」という気持ちを抱きつつも、ファンは「打ってくれ」と願いを込めてどこまでも響く福浦コールで後押しした。
左腕・小川龍也の1球目を見逃すと、2つのボールと3つのファウルで粘り、フルカウントで迎えた7球目。外角に投じられたスライダーを狙ったかのように一閃、放った打球が右翼線に落ちると、球場全体が大歓声に包まれた。興奮はレフトスタンドに陣取る西武ファンをも巻き込み、敵味方関係なくその空間に居た全ての人が福浦へ熱いコールを送った。
イチローがアメリカに渡った翌年に首位打者に
90年代中盤から後半にかけて、パ・リーグの首位打者はイチローの指定席だった(94年~00年まで7年連続首位打者獲得)。
そんなイチローを尊敬し、打撃についてアドバイスを求めたこともある福浦が、イチローがアメリカに渡った翌年に打率.346のハイアベレージで首位打者に輝いた。顔つきといい、体型といい、打撃フォームといい、どことなくイチローと似ている部分も多かった。
その後、福浦は01年~06年にかけて6年連続で3割をマーク。名実ともに日本球界を代表するバットマンのひとりとなった。

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日本プロ野球史上初、出身高校吹奏楽部が応援団とコラボ
昨季、ナイターで行われたDeNAとの交流戦で、球史に残る出来事があった。高校の吹奏楽部がプロ野球の試合の外野席に陣取り、ロッテの応援団と共に応援した。
その高校とは、全国でも屈指の吹奏楽部を持ち、福浦の母校でもある習志野高校。高校野球の応援では「美爆音」の異名を持ち、習志野高校が出場する試合には、美爆音を聞くために全国からファンが駆けつけるほどだ。
当日の球場は平日ながら満員。日本一の吹奏楽部と日本一の応援団のコラボレーションは圧巻だった。高校野球でもお馴染みのロッテのチャンステーマやヒットテーマを演奏したほか、福浦が打席に入った際には、定番の「レッツゴー習志野」改め「レッツゴー福浦」が演奏され、先輩を強力に後押しした。
福浦は習志野高校時代、「レッツゴー習志野」を背にマリンの打席に立っていたわけだが、プロ入り25年目に、再び同校の後輩達から声援を受けるとは思ってもいなかったはずだ。
これも生まれも育ちも千葉という、究極のフランチャイズプレーヤーである福浦の存在があってこそ実現した企画だろう。
生え抜きの魅力を凝縮したプレーヤー
球団が福浦へ示す敬意や感謝は非常に大きい。福浦の2000本安打達成はファンだけではなく、球団の夢でもあったように思う。
長きに渡り、ロッテ一筋で尽力した福浦へのファンの思いは特別だ。福浦ほど生え抜きの魅力を凝縮したプレーヤーは見当たらない。
今季は2軍打撃コーチ兼任がすでに決まっており、安田尚憲、藤原恭大ら将来を期待される逸材の育成に重きをおくことになる。福浦本人のように、多くのファンに長く愛される選手の育成に期待したい。