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元祖二刀流でもある関根潤三選手【球史に名を残した偉人達 】

2017 8/25 10:07cut
野球、ボール
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東京六大学通算41勝をマーク

東京都出身の関根潤三選手は旧制日大三中(現日大三高)へ進学。同校は後に近鉄パールスの監督を務める藤田省三監督が指導していた。旧制中学時代に甲子園出場はなく、関根選手は法政大学へと進学する。法政大学では旧制日大三中時代入学時と同じく藤田監督が指揮を執っており、関根選手は1年からエースとして抜擢された。

旧制中学時代、法政大学時代とバッテリーを組んでいたのが根本陸夫(元西武ライオンズ編成・管理部長、元福岡ダイエーホークス代表取締役専務、代表取締役社長)選手である。根本選手は「球界の寝業師」と呼ばれるなどフロント実績の方が有名ではあるが、アマチュア時代から活躍していたのである。

関根選手は1年春こそ登板はなかったが、1年秋にリーグ戦初登板。3勝8敗と負け越したものの防御率2.23とリーグ5位。3年秋には9勝1敗、防御率1.44で優勝に大きく貢献。これが、大学時代唯一の優勝となった。

大学4年間で79試合に登板し61完投41勝30敗の成績を残しており、東京六大学野球史上歴代5位の勝ち星となっている。また、1949年秋の133.2回は現在も東京六大学野球記録である。

このように、関根選手は東京六大学野球屈指の好投手として注目を浴びていたのだ。

プロ入り初期から投打で期待を掛けられる

関根選手はプロ野球が二リーグ制となった1950年に近鉄パールスへと入団する。旧制日大三中、法政大学と監督を務め関根選手の恩師ともいえる藤田監督が近鉄の監督へと就任したからだ。関根選手は法政大学から社会人野球の八幡製鐵所へと進路を決めていたが、藤田監督からの要請で近鉄入りとなったのである。

初年度から26試合に登板し148回を投げたものの、4勝12敗、防御率5.47と結果を残すことはできなかった。野手としても関根選手は出番を与えられており、開幕5戦目では5番・一塁でスタメン起用。シーズン終盤には先発ながらも5番打者として起用されることもあった。

藤田監督は学生時代から関根選手の投手、野手としての能力を理解しており「二刀流」として起用したのだ。1950年当時は「二刀流」と表現されていなかったが、投手、野手として活躍していたことは事実として残っている。

2リーグ制初期の二刀流は関根選手だったといえそうだ。

現役時代は投打で活躍

プロ入り1年目から投手として起用されながらも、登板のない日には野手としても試合に出ていた関根選手。投手としては創設間もない近鉄のエース格としてチームを支えていた。4年目となる1953年に初の二ケタ勝利(10勝)を達成し投球回数も219回、防御率3.16の成績を残している。翌1954年には16勝12敗、232回を投げ防御率2.44とキャリアハイの成績を残した。初めてチームも4位(8チーム中)となり勝ち越し(74勝63敗3分)をマークした。

このシーズンが関根選手にとって唯一の勝ち越しとなっており、翌年も14勝を挙げたものの16敗と負け越しとなった。1956年シーズン終了で投手から本格的に野手へと転向を決意。

翌1957年からはレギュラー野手として右翼を守ることとなり、主にクリーンナップとしてチームに貢献。打率.284(429打数122安打)、6本塁打、39打点と野手転向1年目から好成績を残している。1962年には打率.310(465打数144安打)と初めて打率3割を超えるなど1964年まで近鉄の主力として活躍。

1965年に巨人へと移籍するとプロ入り16年目で初めてリーグ優勝、日本一を経験する。しかし、この年限りで現役を引退。16年間の現役生活に別れを告げた。

元祖二刀流友呼べる関根選手

現在、北海道日本ハムファイターズの大谷翔平選手が「二刀流」で世間を賑わせている。その、大谷選手2014年には11勝(4敗)、10本塁打と日本球界初となる二ケタ勝利二ケタ本塁打を達成した。これはメジャーリーグを見渡しても1918年のベーブ・ルース選手以来(13勝、11本塁打)となる。

関根選手は大谷選手のように同一シーズンで二ケタ勝利、二ケタ本塁打を達成したことはない。しかし、1953年から1955年まで3年連続で二ケタ勝利をマーク。打者転向後の1963年には12本塁打をマークしている。通算成績では野手として打率.279(4078打数1137安打)、59本塁打、424打点。投手として244試合で65勝94敗、645奪三振を記録している。2016年終了時点で50勝、1000本安打達成は関根選手が唯一の存在となっているのだ。(2リーグ制以降)

関根選手は投手としてプロ入り後に限界を感じ野手へ転向したが、投手時代からも打撃成績はよかった。1950年の入団から1956年まで本格的に投手を行っていたが、最低打率.248(129打数32安打)と野手顔負けであった。(1957年はほぼ野手に転向しており投手としては2試合のみの登板)1952年、1953年には2年連続で打率3割をマークしている。

このように関根選手は1950年代に既に二刀流として成功していたといえる選手だったのである。

現役引退後は2チームで監督を

関根選手は1965年に現役を引退、その後現場から離れていたが1970年に広島東洋カープの一軍打撃コーチに就任。これは根本監督の要請でもあった。関根コーチは後の赤ヘル軍団を形成する山本浩二選手、衣笠祥雄選手、水谷実雄選手らを指導。これで、高校(旧制中学)、大学、現役、指導者として根本氏と同じチームで戦ったことになる。

1975年、1976年の2年間は長嶋茂雄監督の下でヘッドコーチ、二軍監督を歴任。その後、1981年までユニフォームを着ていなかったが1982年に大洋ホエールズの監督に就任。3年間にわたり監督を務めるが、1度も勝ち越すことはできなかった。1983年の3位(61勝61敗8分)が最高成績となっている。

1987年からはヤクルトスワローズの監督に就任。大洋時代と同様に3年間の期間で勝ち越しは一度もなく3年連続Bクラスで監督から退いた。

大洋、ヤクルトの監督時代に優勝争いをすることはできなかったが、若手を起用するなど育成面に重きを置いた采配を行っていた。これは「アマチュア時代、近鉄時代の恩師でもある藤田監督に通じていた」と後に関根監督は語っている。

その後はユニフォームを着ることなく、解説などで活躍中だ。

1927年生まれと高齢ではあるが、深夜のプロ野球番組に出演することもあり、元気な姿をみせている。元祖二刀流関根順三、いつまでも野球界を見守っていてほしいものである。