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「ミスタースワローズ」こと若松勉氏【球史に名を残した偉人達 】


小柄ながらプロ入りを決意

北海道出身の若松勉選手。強豪高校でもある北海高校に進学。2年時からレギュラーを務めるが、甲子園の舞台に立ったのは3年夏の選手権が初めてだった。2年時にチームは甲子園出場を果たしたものの、病気の影響でメンバーを外れたからだ。背番号「14」で甲子園の舞台に立った若松選手ではあるが1回戦敗退。甲子園で勝利を手にすることはできなかった。

その後、大学には進学せずに社会人野球の電電北海道へと進む。都市対抗野球に他チームの補強選手として出場し活躍していた。168センチと小柄だったこともあり、プロ入りには消極的だったものの、1970年ドラフト3位でヤクルトアトムズ(現東京ヤクルトスワローズ)から指名を受け入団。同期には長らくチームメートとして戦うことになる杉浦亨選手(10位)がいた。

ルーキーイヤーとなった1年目の1971年から112試合に出場し打率.303(274打数83安打)、3本塁打、15打点をマーク。規定打席には届かなかったものの、好成績を残し、後半戦にはレギュラーを確保している。

小さな大打者として

規定打席未到達ながら1年目から打率3割をマークした若松選手。2年目となった1972年は開幕戦から1番・左翼でスタメン出場。前半戦は上位打線をまかされていたが後半戦には6番として起用されることも多く、年間を通じて打順は固定されなかった。しかし、115試合に出場し打率.329(365打数120安打)、14本塁打、49打点の成績で自身初のタイトルとなる首位打者を獲得。ベストナインにも選ばれた。

以降、チームの顔となりリーグを代表する外野手となった若松選手は、ベストナインの常連となり引退までに9回受賞している。1977年には打率.358(441打数158安打)をマークし2度目の首位打者を獲得するなど小さな身体ではあるが安打を量産し「小さな大打者」と呼ばれていた。
翌1978年には打率.341(460打数157安打)、17本塁打、71打点の成績を残し、打撃タイトルを獲得していないものの、球団創設以来初となるリーグ優勝に貢献しMVPを受賞。その際には「タイトルを取っていない自分がもらっていいのか」といった趣旨の発言をしていた。常に謙虚だったことが、長きにわたり現役生活を続け、安打を積み重ねる秘訣だったのかもしれない。

このような活躍をみせた若松選手は、19年間の現役生活で12度の打率3割を記録するなど球史に残る選手だった。

通算代打記録保持者でもある

1986年に5年ぶりとなる打率3割を切った若松選手は、翌1987年から「代打の切り札」へと役割を変えることになる。「代打の切り札」として引退までの3年間を過ごし通算代打打率,349(258打数90安打)、12本塁打、70打点を記録。通算代打打率.349は歴代トップの記録となっている。(代打起用数300以上)

通算代打サヨナラ本塁打は3本記録。通算代打本塁打27本で世界記録保持者でもある高井保弘選手(元阪急)と並び歴代トップだ。また、3本の代打サヨナラ本塁打のうち2本は2試合連続で放っている。

このように「代打の切り札」として活躍した若松選手の後継者としてヤクルトに現れたのが、2001年の優勝メンバーでもある真中満選手だ。2007年に歴代トップとなる年間代打起用数98回を記録し31安打をマーク。31安打も歴代最多安打数となっている。若松監督から真中選手へと「代打の切り札」が受け継がれたのだ。

また、2001年に若松監督がリーグ優勝を果たして以来となる優勝を飾ったのも真中監督だった。2人には並々ならぬ縁があるようだ。

「皆様、おめでとうございます」

1989年に現役を引退した若松選手は1993年から一軍打撃コーチに就任。二軍監督、再びの一軍打撃コーチを経て1999年に一軍監督へと就任した。

就任初年度となる1999年は4位(66勝69敗)、2年目の2000年も4位(66勝69敗1分)に終わり2年連続のBクラススタートとなった。しかし、3年目となる2001年シーズンに大躍進を見せる。

自身が打撃コーチとして育てた選手達が活躍。8人が規定打席に到達するなどケガ人がでなかったことにも恵まれ、リーグトップとなるチーム打率.274を記録。投手陣もエースであった川崎憲次郎選手が前年オフにFAで中日へ移籍と万全ではなかったが、2年目の藤井秀悟選手が14勝(8敗)で最多勝を獲得。石井一久選手も12勝とエースの投球をみせた。守護神の高津臣吾選手を始めとした中継ぎ陣も安定し10月6日に優勝を飾っている。

優勝インタビューでは「ファンの皆様、おめでとうございます」とコメント。「ありがとうございます」というところを誤って「おめでとうございます」と発してしまった。

このセリフは2015年に優勝を果たした真中監督も引用している。

ミスタースワローズの系譜

若松勉選手は入団時に背番号「57」をつけていたが、2年目の1972年に「1」へと変更する。以降この背番号「1」が後のヤクルトに取って大きな意味を持つこととなった。若松選手は背番号「1」となった初年度に首位打者を獲得し、1989年の現役引退までに2173安打を記録。通算打率.319(6808打数2173安打)は日本球界4000打数以上の打者で歴代2位。日本人に限ると歴代1位の記録だ。

この活躍から「ミスタースワローズ」と呼ばれ、同時に背番号「1」は永久欠番とはならず、禅譲制となった。その若松選手の次にこの番号を背負ったのは「ぶんぶん丸」こと池山隆寛選手だ。
1983年ドラフト2位でヤクルトへ入団した池山選手は遊撃手という負担の大きいポジションながら、4年連続30本塁打を放つなど強打者として活躍。1992年から背番号「1」を8年間背負っている。晩年はケガ、衰えもあり背番号を「36」に戻し「1」は返上した。

池山選手の次に「1」を背負ったのが岩村明憲選手だった。岩村選手も池山選手同様に強打者としてヤクルトを支えたスラッガーだ。2001年からメジャーリーグ移籍を果たす直前の2006年までの6年間着用した。その後、2010年、2011年に青木宣親選手(現アストロズ)、2016年から山田哲人選手が背番号「1」を身にまとっている。

巨人の王貞治選手のように永久欠番とする球団がある一方、好選手に譲り渡していくスタイルなのがヤクルトだ。若松選手からの系譜はどこまで続くのだろうか。今後もヤクルトの背番号「1」から目が離せない。

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