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「ミスタースワローズ」こと若松勉氏【球史に名を残した偉人達 】

2017 8/25 10:07cut
野球、グローブ、ボール、バット
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小柄ながらプロ入りを決意

北海道出身の若松勉選手。強豪高校でもある北海高校に進学。2年時からレギュラーを務めるが、甲子園の舞台に立ったのは3年夏の選手権が初めてだった。2年時にチームは甲子園出場を果たしたものの、病気の影響でメンバーを外れたからだ。背番号「14」で甲子園の舞台に立った若松選手ではあるが1回戦敗退。甲子園で勝利を手にすることはできなかった。

その後、大学には進学せずに社会人野球の電電北海道へと進む。都市対抗野球に他チームの補強選手として出場し活躍していた。168センチと小柄だったこともあり、プロ入りには消極的だったものの、1970年ドラフト3位でヤクルトアトムズ(現東京ヤクルトスワローズ)から指名を受け入団。同期には長らくチームメートとして戦うことになる杉浦亨選手(10位)がいた。

ルーキーイヤーとなった1年目の1971年から112試合に出場し打率.303(274打数83安打)、3本塁打、15打点をマーク。規定打席には届かなかったものの、好成績を残し、後半戦にはレギュラーを確保している。

小さな大打者として

規定打席未到達ながら1年目から打率3割をマークした若松選手。2年目となった1972年は開幕戦から1番・左翼でスタメン出場。前半戦は上位打線をまかされていたが後半戦には6番として起用されることも多く、年間を通じて打順は固定されなかった。しかし、115試合に出場し打率.329(365打数120安打)、14本塁打、49打点の成績で自身初のタイトルとなる首位打者を獲得。ベストナインにも選ばれた。

以降、チームの顔となりリーグを代表する外野手となった若松選手は、ベストナインの常連となり引退までに9回受賞している。1977年には打率.358(441打数158安打)をマークし2度目の首位打者を獲得するなど小さな身体ではあるが安打を量産し「小さな大打者」と呼ばれていた。
翌1978年には打率.341(460打数157安打)、17本塁打、71打点の成績を残し、打撃タイトルを獲得していないものの、球団創設以来初となるリーグ優勝に貢献しMVPを受賞。その際には「タイトルを取っていない自分がもらっていいのか」といった趣旨の発言をしていた。常に謙虚だったことが、長きにわたり現役生活を続け、安打を積み重ねる秘訣だったのかもしれない。

このような活躍をみせた若松選手は、19年間の現役生活で12度の打率3割を記録するなど球史に残る選手だった。

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