選手、監督、GMとして活躍!高田繁氏【球史に名を残した偉人達 】|【SPAIA】スパイア

「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

選手、監督、GMとして活躍!高田繁氏【球史に名を残した偉人達 】


アマチュア時代からスター街道

2017年現在、横浜DeNAベイスターズのGM(ゼネラルマネージャー)を務める高田繁氏。現役時代は巨人の左翼、三塁として活躍。V9を主力選手として支えていたが、アマチュア時代も目を見張る活躍を見せていた。

高田選手は浪商高校(現大体大浪商)1年夏にエースの尾崎行雄選手らとともに甲子園で優勝。高田選手は1年生で唯一のベンチ入りメンバーとなっており、背番号「14」を背負っていた。2年春、夏ともに甲子園へ出場ができなかった高田選手は東京六大学の明治大学へと進学。1年秋から7季連続でベストナインを獲得し大学通算127安打をマーク。2015年に高山俊(明大→阪神)が破るまで、約50年もの間、六大学記録保持者となっていた。

甲子園優勝、六大学最多安打の実績を持って1967年のドラフト会議に臨んだ高田選手は、巨人から1位指名を受け入団に至る。この年のドラフトでは「マサカリ投法」が代名詞の村田兆治選手が東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)に指名されており、チームは違えど同期入団となっている。

高田選手はドラフト1位と言うこともあり、大きな期待を掛けられ背番号は一桁の「8」を与えられた。

1年目からレギュラーを獲得し新人王受賞

大洋ホエールズ(現DeNA)との開幕戦はスタメン出場とならなかった高田選手。初めて巡ってきた出番は7回の守備からだった。8回に初打席が回ってくると平松政次選手から安打を放ち、プロ初打席初安打を記録。翌日に行われた試合では1番・中堅でプロ初スタメンを果たすなど順調に試合へと出場していく。

この年は中堅、右翼、左翼と外野全ポジションを守り、主に1番打者としてリードオフマンの役割を果たしている。シーズンを通して120試合に出場。打率.301(346打数104安打)、9本塁打、30打点、23盗塁の成績を残し新人王を受賞した。

リーグ優勝を果たした巨人は日本シリーズへと出場。高田選手は毎試合得点を記録するなどの活躍で新人ながら日本シリーズMVPを獲得。巨人のV4へ大きく貢献した。

2年目のシーズンとなった1969年は打率こそ若干下がったものの、ほぼ1年目と同様の数字(打率.294、12本塁打、46打点、12盗塁)を残し、活躍がフロック(まぐれ)ではないことを証明している。

V9を支えたリードオフマン

V9まっただ中の1968年に巨人へと入団した高田選手。入団1年目から1番、2番を任されることが多く、「赤い手袋」の異名を持った柴田勲選手とともに上位打線を牽引。王貞治選手、長嶋茂雄選手といった中軸の前に塁へ出ることを求められていた。

3年目の1970年には初めて130試合全試合に出場。リーグトップの569打席に立つなど役割を果たしている。4年目の1971年には38盗塁をマークし自身初のタイトルとなる盗塁王を獲得。これが、高田選手にとって生涯唯一の打撃タイトルとなっている。

1978年まで100試合以上に出場していたが、1979年には96試合、1980年には81試合の出場と徐々に出番が減少。これは、期待の新人である中畑清選手の入団も理由の一つとなっていた。高田選手は引き際を自身で決め1980年に王選手とともに現役を引退。オフシーズンに行われたファン感謝デーにおいて引退セレモニーも行った。V9の主力選手が続々と引退となり、残すは柴田選手くらいとなってしまったのである。

高田選手は13年間の現役生活で1512試合に出場し打率.273(5064打数1384安打)、139本塁打、499打点、200盗塁をマーク。200盗塁は巨人の選手において柴田選手(579盗塁)、松本匡史選手(342盗塁)、鈴木尚広選手(228盗塁)、川上哲治選手(220盗塁)に次ぐチーム歴代5位の記録でもある。

塀際の魔術師と呼ばれた守備力

高田選手は走攻守が揃ったリードオフマンであったが、守備が最も優れていたといえる。1972年に制定されたダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を4年連続で外野手として受賞。その後、1976年、1977年と2年連続で三塁手としても栄誉に輝いている。外野手から内野手へとコンバートされ、両方で同賞を受賞した史上初の選手となった。以後、内外野両方で受賞した選手は西村徳文選手(元ロッテ)、稲葉篤紀選手(元日本ハム)の2名のみだ。

入団当初は外野手としてプレーしていた高田選手。とくに、クッションボールの処理に長けており、二塁打を単打で止める判断力を持ち合わせていたのだ。その見事な処理から高田選手は「塀際の魔術師」と呼ばれていた。

高田選手は1975年オフに長嶋監督からの打診を受け左翼から三塁へと転向。外野から内野へのコンバートは当時、珍しかったが快諾した。秋のキャンプから猛特訓を行い、転向1年目でダイヤモンドグラブ賞を受賞した。長嶋監督は三塁を守っていた現役時代に「高田選手が後ろである、左翼を守っていたときの守備を見て大丈夫と判断した。」という趣旨の発言を行っている。

現役を引退する際は「イメージした場所と20センチボールがずれている。プロとして失格」と語っていたほど守備にはこだわりを持っていた。

現役引退後は監督、GMとして

巨人一筋で現役生活を引退した高田選手。巨人でコーチを務めることはなく、引退後に初めてユニフォームを着たのは日本ハムの監督としてだった。1985年から4年間監督を務め5位、5位、3位、3位と2度のAクラスを記録している。

以降は巨人のコーチ、日本ハムのGMを経て2008年にヤクルトの監督に就任。1年目こそ5位に終わったが、2年目の2009年には借金が1つありながらも3位を確保しクライマックスシリーズへ進出。ファーストステージで敗れたが翌年へ期待を持たせる内容でもあった。しかし、2010年シーズンは開幕から成績が上がらずシーズン半ばで休養となった。

ヤクルトの監督を退任後、2011年オフにDeNAの初代GM経就任。チームの編成を任されチームの改革を行った。当初は結果がなかなか出なかったもののドラフトで獲得した選手が花開き、2016年シーズンに初のクライマックスシリーズ進出を果たすなど成果を残している。

1945年生まれということもありすでに70歳を超えている。GMの後任を育て、後数年で身を引くことになりそうだ。その間にチームを優勝に導くことができるか注目が集まる。

おすすめの記事

関連記事

プロ野球 試合経過・結果

セ・リーグ

パ・リーグ

{{league_title}}

  • 本日開催される試合はありません

B1 順位表

東地区
中地区
西地区
:Bリーグ チャンピオンシップ出場チーム
:B1 残留プレーオフ出場チーム
チーム勝率
{{club.Rank}}{{club.TeamNameS}}
{{club.WinningCount}}{{club.LosingCount}}{{trimFirstZero(club.WinningRate)}}{{getFormattedGameBehind(club)}}
:Bリーグ チャンピオンシップ出場チーム
:B1 残留プレーオフ出場チーム
チーム勝率
{{club.Rank}}{{club.TeamNameS}}
{{club.WinningCount}}{{club.LosingCount}}{{trimFirstZero(club.WinningRate)}}{{getFormattedGameBehind(club)}}
:Bリーグ チャンピオンシップ出場チーム
:B1 残留プレーオフ出場チーム
チーム勝率
{{club.Rank}}{{club.TeamNameS}}
{{club.WinningCount}}{{club.LosingCount}}{{trimFirstZero(club.WinningRate)}}{{getFormattedGameBehind(club)}}

プロ野球 OPS順位

セ・リーグ
パ・リーグ
 選手名・所属チームOPS 
{{index + 1}}{{item.raw.Name}}{{item.raw['ShortName-Team']}}{{item.metrics.ops.toFixed(3)}}{{item.metrics.ops.toFixed(3).substring(1)}}
 選手名・所属チームOPS 
{{index + 1}}{{item.raw.Name}}{{item.raw['ShortName-Team']}}{{item.metrics.ops.toFixed(3)}}{{item.metrics.ops.toFixed(3).substring(1)}}

人気記事ランキング

SPAIA スポーツコラム ライター募集中!