王貞治選手との出会いは偶然
現役時代に毎日(大毎)オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)で9年間にわたりプレーし、現役引退後は読売ジャイアンツのコーチ、ヤクルトスワローズの監督を務めた荒川博氏。現役時代にタイトルの獲得はなく、目立った実績と言えばルーキーイヤー(1953年)のオールスター出場のみだった。
しかし、荒川氏は野球界に大きな影響を与えた1人として球史に名を刻んでいる。それは王貞治選手を指導し、世界の本塁打王へと育て上げた人物だからに他ならないからである。
荒川選手が1年目のオフとなる1953年11月下旬に2人は偶然巡り会った。墨田公園少年野球場でプレーしていた王選手に荒川選手が声をかけたのだ。王選手は他の選手達に比べてひときわ大きく目立った存在だったという。
この際に荒川選手は王選手に「今何年生だ?」と問いかけると「2年生です」と王選手は返答する。荒川選手は王選手が高校2年生と思い、自身の母校でもあった早稲田大学への進学を勧めた。しかし、王選手は実際には中学2年生だったという逸話もある。それほどまでに王選手の体躯は既に大きかったのだ。
その王選手に「左利きなんだから左で打った方がいいよ」とアドバイスしたのだ。当時、右打ちで打撃を行っていた王選手は、そのアドバイスを聞き入れ、左打席に入ると二塁打を放ち、感激を覚えたという。
巨人のコーチとして王と再会
荒川選手は1961年に現役を引退。翌1960年から巨人の打撃コーチに就任する。巨人の川上哲治監督は潜在能力は高いながらも、結果を残せないでいた王選手を荒川コーチに託すことを決めたのだ。荒川コーチは現役時代にチームメートであった榎本喜八選手を開花させた実績があり、その手腕を川上監督は評価していた。
川上監督は王選手を3割、25本塁打を打てる素質があると見込んでおり精神面の強化を特に荒川コーチに依頼していた。王選手は素質がありながらも結果が出ず、自信をなくしていた。自信が持てず練習にも身が入らないという悪循環に陥っていた。その原因となっている精神面の強化が必要と考えられていたのだ。
1961年の秋季キャンプでプロ入り後、王選手を初めて指導した荒川コーチは「野球が下手になったな」と語ったという。しかし、「それにも関わらず打率.270打てるのだから素質はある」と続けていた。
1961年シーズンまで17本塁打がキャリアハイとなっていた王選手が開花するのは、荒川コーチが巨人へやってきた1962年シーズンのことだ。
転機となった一本足打法
1962年シーズンが開幕後も、王選手は成績が上がらず、6月の時点で9本塁打と荒川コーチとの練習の成果が結果に表れなかった。巨人のチーム状況も悪く、別所毅彦投手コーチは「王が打てないから勝てないんだ」と荒川コーチに苦言を呈していた。
荒川コーチは別所コーチの発言に対し「王は本塁打ならいつでも打てる。三冠王をとらせるために指導をしているんだ」と言い返す。別所コーチは「本塁打だけでも打たせろ」と売り言葉に買い言葉となった。
荒川コーチは王選手へ「一本足で打て、三振を怖がるな」と一本足打法を指示。その日の試合で王選手は初めて一本足打法に取り組んだ。そこで王選手は5打数3安打、1本塁打、4打点の結果を残し、一本足デビューを飾っている。
一本足打法は荒川コーチと別所コーチの口論から始まったのだ。
荒川コーチはその後「あの試合で王が一本足で結果を残せなかったら辞めさせていた」とも語っている。王選手は7月以降本塁打を量産し、シーズンを通して38本塁打をマーク。自身初となる最多本塁打のタイトル、そして打点王(85打点)を獲得した。この年から前人未踏の、13年連続最多本塁打を獲得することになる。
荒川道場では真剣を使ったトレーニング
一本足打法を指導し王選手を開花させた荒川コーチは「荒川道場」を開き、合気道など、野球以外からも多くのことを選手へ伝えていった。なかには日本刀の真剣を使って素振りをするトレーニングも含まれていた。
天井からぶら下げた短冊状の新聞紙を真剣で振り抜くこのトレーニング。真剣を振るのではなく、止めることで短冊を斬るという動きを練習させた。一般的にバットよりも真剣は重く力を入れないと止まらない。また、止めることができないと足を斬ってしまう恐れもある。その動きを行うことで選手達の集中力が研ぎ澄まされたという。
このような練習を王選手を始めとした巨人の選手は行っていたのだ。
また、短冊を回転させながら斬る練習も行った。「投手が変化球を投げることを想定した」と荒川コーチは語っている。回転するタイミングを見て間合いを掴むという。
これほどまでの特訓があり一本足打法、そして世界の本塁打王は生まれたのだ。
その後、荒川コーチは1970年まで巨人の打撃コーチを務め、1974年からヤクルトの監督へと就任。敵軍の将として王選手と戦うことになった。
バッキー選手との乱闘事件
巨人のコーチ時代に王選手を育て上げた荒川コーチ。それに加え、もう一つ後世に語り継げられているできごとがある。1968年に起きた「バッキー・荒川事件」だ。
1968年9月18日に阪神甲子園球場で行われた阪神対巨人の一戦。阪神先発のバッキー選手が王選手の頭部付近へ危険球を投じたことが、事件の発端となった。王選手がバッキー選手のもとへ歩み寄ったところで、両チームの選手達がグラウンドになだれ込む。
両チームの選手が入り乱れる中でバッキー選手と荒川コーチが乱闘となった。この騒動時にバッキー選手は荒川コーチを殴打。その衝撃で利き腕である右手の親指を骨折してしまう。このケガが原因でバッキー選手はその後白星を挙げることができず、近鉄へ移籍した翌1969年は0勝7敗の成績に終わり、現役を引退した。
バッキー選手は1964年に29勝(9敗)で最多勝を獲得し、外国人選手として初の沢村賞を受賞。5年連続で二ケタ勝利を挙げる活躍を見せていたが、この乱闘が原因で選手生命を絶つことになってしまったのだ。
このように様々なエピソードのある荒川コーチだったが、2016年12月に急逝してしまう。昼食中に突如倒れそのまま息を引き取った。その日の夜も巨人のOB会に出席予定となっており、直前まで元気であったにも関わらずだ。荒川コーチの突然の訃報に多くの球界関係者は胸を痛め、関係者内外からも多くのコメントが寄せられた。
このコメントの多さは、歩んできた野球人生を物語る。集大成とも言えるだろう。