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ザトペック投法で222勝を挙げた村山実選手

2017 8/3 12:07cut
野球ボール
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阪神一筋の現役時代

1959年に関西大学から大阪(阪神)タイガースへと入団した村山選手。ルーキーイヤーから18勝(10敗)を挙げる活躍を見せ、最優秀防御率のタイトルを獲得。エース格へと上り詰めた。新人として好成績を残した村山選手だったが、新人王は獲得できなかった。大洋ホエールズの桑田武選手が新人最多記録となる31本塁打、そして本塁打王を獲得し新人王もさらわれてしまったのだ。
2年目(1960年)は8勝15敗と大きく負け越してしまったものの、防御率2.52と一定の成績は残している。3年目(1961年)から10年連続二ケタ勝利を達成。1963年まで在籍した当時のエース・小山正明選手、1967年に入団してきた江夏豊選手らとともに阪神の投手陣を支えてきた。
その間、1962年、1964年と2度のリーグ優勝を果たしたものの日本シリーズで敗退。日本一に輝くことはできなかった。 最後の二ケタ勝利となった1970年には勝率.824、防御率0.98と圧倒的な成績を残した。1972年に現役を引退。直後に背番号「11」は永久欠番となっている。阪神史上2人目の永久欠番となったのだ。
翌1973年春のオープン戦で引退試合を敢行。大きな拍手、声援にが送られスタジアムから去った。

燦然と輝く驚異の防御率0点台

村山選手は新人だった1959年に防御率1.19という、圧倒的な成績を残し最優秀防御率のタイトルを獲得している。その後も1962年に1.20で自身2度目となる最優秀防御率に輝く。しかし、驚異的なのは1970年の成績だ。
この年の村山選手は戦後唯一となる防御率0点台を記録。25試合、156回を投げ14勝3敗、防御率0.98で3度目のタイトルを獲得している。1リーグ時代の最高防御率は藤本英雄選手(巨人)の0.73(1943年)など9例あるが戦後初の1点台未満となった。これ以降、防御率1点台を切る選手は現れておらず、1956年の稲尾和久選手が記録した1.06がこれに次ぐ数字となっている。
村山選手はシーズン中に9連勝を記録するなど圧倒的な投球を見せ、最高勝率のタイトルも獲得。しかし、チームは巨人に2ゲーム差の2位に終わり優勝を逃している。また、この数字を残してもベストナインは平松政次選手(大洋)に奪われてしまった。
この年の平松選手は25勝19敗、332.2回を投げ182奪三振、防御率1.95の成績を残し沢村賞も獲得していたからだ。
村山選手の防御率0.98は今後、破られることはなさそうな記録の一つである。

※1:若林選手、杉下選手は名球会入会資格の一つである昭和生まれを満たしていないため除外
※2:1イニングあたりのどれだけ走者を出したかを表す指標

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