ザトペック投法で222勝を挙げた村山実選手|【SPAIA】スパイア

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ザトペック投法で222勝を挙げた村山実選手


阪神一筋の現役時代

1959年に関西大学から大阪(阪神)タイガースへと入団した村山選手。ルーキーイヤーから18勝(10敗)を挙げる活躍を見せ、最優秀防御率のタイトルを獲得。エース格へと上り詰めた。新人として好成績を残した村山選手だったが、新人王は獲得できなかった。大洋ホエールズの桑田武選手が新人最多記録となる31本塁打、そして本塁打王を獲得し新人王もさらわれてしまったのだ。
2年目(1960年)は8勝15敗と大きく負け越してしまったものの、防御率2.52と一定の成績は残している。3年目(1961年)から10年連続二ケタ勝利を達成。1963年まで在籍した当時のエース・小山正明選手、1967年に入団してきた江夏豊選手らとともに阪神の投手陣を支えてきた。
その間、1962年、1964年と2度のリーグ優勝を果たしたものの日本シリーズで敗退。日本一に輝くことはできなかった。 最後の二ケタ勝利となった1970年には勝率.824、防御率0.98と圧倒的な成績を残した。1972年に現役を引退。直後に背番号「11」は永久欠番となっている。阪神史上2人目の永久欠番となったのだ。
翌1973年春のオープン戦で引退試合を敢行。大きな拍手、声援にが送られスタジアムから去った。

燦然と輝く驚異の防御率0点台

村山選手は新人だった1959年に防御率1.19という、圧倒的な成績を残し最優秀防御率のタイトルを獲得している。その後も1962年に1.20で自身2度目となる最優秀防御率に輝く。しかし、驚異的なのは1970年の成績だ。
この年の村山選手は戦後唯一となる防御率0点台を記録。25試合、156回を投げ14勝3敗、防御率0.98で3度目のタイトルを獲得している。1リーグ時代の最高防御率は藤本英雄選手(巨人)の0.73(1943年)など9例あるが戦後初の1点台未満となった。これ以降、防御率1点台を切る選手は現れておらず、1956年の稲尾和久選手が記録した1.06がこれに次ぐ数字となっている。
村山選手はシーズン中に9連勝を記録するなど圧倒的な投球を見せ、最高勝率のタイトルも獲得。しかし、チームは巨人に2ゲーム差の2位に終わり優勝を逃している。また、この数字を残してもベストナインは平松政次選手(大洋)に奪われてしまった。
この年の平松選手は25勝19敗、332.2回を投げ182奪三振、防御率1.95の成績を残し沢村賞も獲得していたからだ。
村山選手の防御率0.98は今後、破られることはなさそうな記録の一つである。

※1:若林選手、杉下選手は名球会入会資格の一つである昭和生まれを満たしていないため除外
※2:1イニングあたりのどれだけ走者を出したかを表す指標

陸上選手に由来!ザトペック投法

村山選手は175センチと小柄と言うこともあり、身体全体を大きく使う投球フォームでプロ野球の世界を戦っていた。その姿は画面越しから見ても苦しそうということで「ザトペック投法」と呼ばれるようになった。
ザトペックとは1948年ロンドンオリンピックの男子10000メートル、1952年ヘルシンキオリンピックでは5000メートル、10000メートル、マラソンでは金メダルを獲得したミエール・ザトペック選手に由来する。ザトペック選手は顔をしかめながら、苦しそうに走る姿が特徴的でもあった。
このように村山選手は投球内容でだけではなく、投球フォームでも注目を浴びていたのだ。
プロ野球選手にしては小さな身体から顔をゆがめながら、当時の盟主であった巨人、そして長嶋茂雄選手に対して闘志をむき出しにして投げた村山選手。その姿に多くのファンは心を打たれたのだった。

天覧試合でのサヨナラ本塁打

村山選手のハイライトの一つに天覧試合がある。長嶋茂雄選手がサヨナラ本塁打で試合を決めた伝説の試合だ。この試合は長嶋選手、王貞治選手による初めてのアベック本塁打が記録された試合でもあった。

1959年6月25日に後楽園球場で行われた「読売ジャイアンツ対阪神タイガース」。この試合は天覧試合と言うことで通常の試合とは異なり様々な配慮が取られていた。外野席で応援団によって行われる鳴り物応援も自粛。球場全体が静かだったとも言われている。この試合は巨人・藤田元司選手、阪神・小山正明選手と両チーム共にエースをマウンドへ送っていた。

村山選手は先発ではなかったのだ。

試合は両チームとも点を取り合う展開となり、7回裏に王選手が小山選手から本塁打を放ち4-4の同点。ここから村山選手がリリーフで登板。試合は4-4のまま9回に突入する。9回表の阪神は無得点。その裏、巨人の攻撃は長嶋選手からだった。ここで、村山選手は長嶋選手に本塁打を浴びサヨナラ負け。この本塁打はレフトスタンドポール際へのあたりだったこともあり、村山選手は生涯にわたり「あれはファールだった」と言って譲らない。

今の時代であればリプレー検証が行われているだろうが、当時は審判の判断が絶対だ。判定は覆ることがなく本塁打となり天覧試合の幕は下りた。

この試合以降、プロ野球において天覧試合は行われていない。2017年現在、村山選手は最初で最後の天覧試合の敗戦投手となっているのである。

村山選手の残した記録

村山選手は阪神一筋で現役生活を全うした。沢村賞を歴代最多タイとなる3回(1959年、1962年、1970年)受賞するなど時代を築いた名投手でもあった。14年間で通算509試合に登板し222勝(147敗)をマークしている。この222勝という数字は戦前、戦後初期の阪神を支えた若林忠志選手に次ぐ、チーム史上2位の記録となっている。また、大卒選手としても若林選手の237勝に次ぐ2位の数字となった。
名球会入会資格(※1)となる200勝を超える投手で大卒なのは村山選手が初だ。2人目の達成者が黒田博樹選手となっており、非常に達成が困難な数字であることがうかがいしれる。また、通算防御率2.09は2000投球回以上の選手で歴代6位、WHIP(※2)0.95は日本プロ野球記録となっている。
このような、多くの記録を打ち立てた村山選手は1993年には野球殿堂入りも果たしている。
1998年に直腸がんを患い61歳の若さで亡くなっている村山選手は、記憶と記録に残っている名選手だった。今後も、阪神ファンだけでなくプロ野球ファンに語られるべき名選手の一人だろう。

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