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監督としての村山実氏はどうだった?【球史に名を残した偉人達】

2017 8/3 12:07cut
野球ボールとグローブ
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ミスタータイガースとしてエースを務めた現役時代

「ミスタータイガース」として親しまれた村山実選手。1959年に関西大学から大阪タイガース(現阪神タイガース)へと入団する。初年度から54試合に登板、18勝をマークし、防御率1.19で最優秀防御率のタイトルを獲得。沢村賞を受賞した。また、プロ野球史上唯一となっている「天覧試合」で、長嶋茂雄選手(巨人)にサヨナラ本塁打を浴びたことでも後世に名前が残っている。
1965年、1966年には2年連続で最多勝、沢村賞を獲得するなどチームの柱として活躍する。通算3度の沢村賞は、2016年終了時点で、最多タイとなっている。1970年には防御率0.98と最後の1点台未満を記録するなど、阪神一筋14年間で509試合に登板し、222勝147敗、防御率2.09の数字を残し、阪神を代表する大投手でもあった。この222勝は2016年終了時点で阪神史上歴代2位の記録にもなっている。(1位は若林忠志選手の237勝)

知られていない兼任監督時代

選手時代に多くのタイトルを獲得し、不滅の記録を残した印象が強い村山選手。しかし、晩年に選手兼任監督として、チームの指揮を執っていたことはあまり知られていない。
1969年に投手コーチ兼任としてプレーした村山選手は、1970年に後藤次男監督の後を継ぎ、監督へ就任。選手としては14勝3敗、防御率0.98をマークしながら、監督としてチームを2位(77勝49敗4分)に導いている。この当時は巨人がV9を達成するなど、圧倒的な強さを誇っていた。そのなかで、選手、監督を二足の草鞋を履いて立ち向かっていたのだ。この姿に巨人の川上哲治監督は感嘆した。
されど、1971年は選手としての成績も低調、監督としても5位(57勝64敗9分)と結果を残せなかった。そこで、1972年は4月半ばに監督を金田正泰監督代行を任せ自身は再び選手に専念する。しかしそれでも、22試合の登板で4勝6敗、防御率3.61と結果を残すことができず、遂に引退を決意する。引退試合での「涙でサインが見えへんからフォークボールや」のセリフは語り継がれている。
その後は、現場を離れて解説者として野球界に携わっていた。再び現場に戻ってくるのは16年後のこととなる。

再建を託された背番号11

1988年に前年までチームを率いた吉田義男監督の退任に伴い、村山監督が誕生した。選手兼任時代に続いて2度目の監督就任となり、専任としては初めての監督となる。1972年の現役を引退後は他球団を含めコーチなどの経験もなく、16年ぶりの現場復帰となった。その際に背番号を現役時代と同じく「11」を選んでいる。背番号「11」は永久欠番となっていたが村山監督の復帰により再びグラウンドで見ることができるようになった。

1988年は苦難の年だった。1985年にバース選手、掛布雅之選手、岡田彰布選手、真弓明信選手を吉田義男監督が束ね、球団史上初となる日本一を達成。しかし、翌1986年は、バース選手が2年連続での三冠王を獲得するが、健闘及ばず3位となり、1987年には、優勝した巨人から37.5ゲーム差をつけられた屈辱の最下位となる。41勝83敗6分、勝率.331は球団史上ワーストの勝率でもあった。年を追うごとに悪くなっていたチームの再建を託されたのが、「二代目ミスタータイガース」こと村山監督だったのだ。

球団史上初の開幕2戦連続完封負け

村山監督は1988年シーズン開幕戦に仲田幸司選手を先発のマウンドに送った。仲田選手は高卒4年目の左腕で前年(1987年)に8勝(11敗)と最下位のチームで奮闘。シーズンの柱へと期待が掛かっていた。この仲田選手、遠山昭治選手、猪俣隆選手の左腕3人が、村山監督の皮算用にもなっていたのだ。

広島東洋カープとの開幕戦で先発を任された仲田選手は、8回3失点と完投するも味方打線の援護がなく完封負けを喫する。北別府学選手の前にわずか3安打であった。掛布選手、バース選手、岡田選手の中軸は無安打に抑えられている。村山監督が、開幕2戦目のマウンドに送り込んだのは、来日2年目のキーオ選手だった。キーオ選手は来日11年目となった1987年にも11勝(14敗)を挙げ、バース選手と共に、助っ人外国人としての存在感を十分に出していた。

キーオ選手は広島打線を6回まで無失点に抑えるも7回、8回に1点ずつ失い8回2失点。この日も前日に引き続き、打線が大野豊選手の前に封じ込められ、0点に抑えられる。敗戦となった。球団史上初となる開幕から2戦連続完封負けと、暗雲立ちこめるスタートとなった。1999年以降も開幕2試合連続完封負けという記録はなく、2016年終了時点で球団ワースト記録のままである。

バース選手、掛布選手を欠いた1989年

監督復帰初年度となった1988年シーズン中にバース選手が解雇された。開幕から4番を務め22試合で打率.321、2本塁打、8打点の成績を残していたが、長男の病気のために5月に一時帰国。その後、球団との契約がこじれ復帰はならず6月下旬に解雇が決定した。

また、村山監督同様に「ミスタータイガース」としてチームを引っ張り、1985年の日本一にも貢献した掛布選手が、故障もあり不振が続いていた。67試合で打率.250、5本塁打、32打点と結果を残すことができずに引退を表明する。村山監督は打線の軸となる2人が不在の中で、初年度を率いるというハンデを負った。

監督2年目となった1989年は、バース選手に代わりやってきたフィルダー選手が大当たりとなる。2年連続で開幕戦の相手となった広島に、7回まで無失点と抑えられていた阪神。しかし、8回表にフィルダー選手の来日第1号本塁打などで一挙5点を奪い、逆転勝利し、2年目の初陣を白星で飾った。

以降もフィルダー選手は本塁打を量産し、106試合で38本塁打を放つ。村山監督を大いに助けた。しかし、シーズン終盤に自身の投げつけたバットが小指にあたり、骨折となり、そのままシーズンを棒に振ってしまう。シーズン終盤の主砲離脱により、阪神は最後の追い上げができなかった。

村山監督は、2年目のシーズンで前年より1つ順位を上げ5位になったものの、首位とのゲーム差は30.5と大きく離され、そして、退任された。以降、ユニフォームを着ることはなかった。

監督退任から9年後の1998年に、直腸がんにより61歳の若さで亡くなっている。監督として大きな成果を残すことができなかったものの、長嶋茂雄選手との名勝負を始めとした「ミスタータイガース」としての勇姿はこれからも忘れられないだろう。