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藤本英雄選手の残した偉大な記録とは?【球史に名を残した偉人達】

2018 1/1 21:01cut
野球ボール
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現役13年で200勝を達成

旧制下関商業で2度の甲子園出場を果たし明治大学へと進学した藤本英雄選手。4年間で34勝をマークし明治大史上1位の勝利数を達成している。この記録は2016年現在も破られていない。
1942年に明治大から東京巨人軍(現:読売ジャイアンツ)へ入団、10連勝し、2年目には34勝(11敗)、防御率0.73をマークしエースとなった藤本選手。1946年には自身二度目の20勝を超える21勝(6敗)、防御率2.11と最多勝、最優秀防御率のタイトルを獲得した。1947年には中部日本ドラゴンズ(現中日ドラゴンズ)へと移籍し、そこでも17勝(15敗)、防御率1.83と実力を発揮した。
翌1948年には再び巨人に戻るが故障もあり、投手としては8勝に終わったが、外野手としても出場し打率.217(129打数28安打)をマークしている。
1949年から再び投手としても復帰し24勝(7敗)、防御率1.94でをマークし沢村賞、ベストナインを受賞した。1953年まで二ケタ勝利を続け、晩年は登板機会も限られていたが通算で200勝を達成。現役生活13年間で偉業を達成した。

知られていない選手兼任監督時代

藤本選手はエースとして巨人を支える一方で、選手兼任監督として指揮を執っていた時期があったことはあまり知られていない。1943年シーズンまではプロ野球史上初の三冠王に輝いた中島治康監督がチームを率いていたが、1944年に中島監督が戦争に応召(おうしょう)され、藤本選手が監督も兼任することになった。当時25歳だった藤本選手は史上最年少の監督となったのだ。
このシーズン、藤本選手兼監督は21試合に登板し10勝8敗、113奪三振、防御率1.59の成績を残し、監督としては19勝14敗2分(2位)となった。チーム19勝のうち10勝を自身の手で挙げたものであり、まさに孤軍奮闘していた。
1945年シーズンは太平洋戦争のために開催されず、1946年に再開されたリーグで再び監督としてチームを率いている。6月に中島監督が復帰したためにシーズン途中からは再び選手一本へと戻ると2シーズンぶりに20勝を超える21勝(6敗)をマークし、防御率2.11で最優秀防御率のタイトルを獲得している。
これ以降、藤本選手が一軍の監督としてチームを率いたことはなく、貴重な監督時代となっている。

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