藤本英雄選手の残した偉大な記録とは?【球史に名を残した偉人達】|【SPAIA】スパイア

「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

藤本英雄選手の残した偉大な記録とは?【球史に名を残した偉人達】


現役13年で200勝を達成

旧制下関商業で2度の甲子園出場を果たし明治大学へと進学した藤本英雄選手。4年間で34勝をマークし明治大史上1位の勝利数を達成している。この記録は2016年現在も破られていない。
1942年に明治大から東京巨人軍(現:読売ジャイアンツ)へ入団、10連勝し、2年目には34勝(11敗)、防御率0.73をマークしエースとなった藤本選手。1946年には自身二度目の20勝を超える21勝(6敗)、防御率2.11と最多勝、最優秀防御率のタイトルを獲得した。1947年には中部日本ドラゴンズ(現中日ドラゴンズ)へと移籍し、そこでも17勝(15敗)、防御率1.83と実力を発揮した。
翌1948年には再び巨人に戻るが故障もあり、投手としては8勝に終わったが、外野手としても出場し打率.217(129打数28安打)をマークしている。
1949年から再び投手としても復帰し24勝(7敗)、防御率1.94でをマークし沢村賞、ベストナインを受賞した。1953年まで二ケタ勝利を続け、晩年は登板機会も限られていたが通算で200勝を達成。現役生活13年間で偉業を達成した。

知られていない選手兼任監督時代

藤本選手はエースとして巨人を支える一方で、選手兼任監督として指揮を執っていた時期があったことはあまり知られていない。1943年シーズンまではプロ野球史上初の三冠王に輝いた中島治康監督がチームを率いていたが、1944年に中島監督が戦争に応召(おうしょう)され、藤本選手が監督も兼任することになった。当時25歳だった藤本選手は史上最年少の監督となったのだ。
このシーズン、藤本選手兼監督は21試合に登板し10勝8敗、113奪三振、防御率1.59の成績を残し、監督としては19勝14敗2分(2位)となった。チーム19勝のうち10勝を自身の手で挙げたものであり、まさに孤軍奮闘していた。
1945年シーズンは太平洋戦争のために開催されず、1946年に再開されたリーグで再び監督としてチームを率いている。6月に中島監督が復帰したためにシーズン途中からは再び選手一本へと戻ると2シーズンぶりに20勝を超える21勝(6敗)をマークし、防御率2.11で最優秀防御率のタイトルを獲得している。
これ以降、藤本選手が一軍の監督としてチームを率いたことはなく、貴重な監督時代となっている。

史上初の完全試合も写真はなし!

藤本選手はプロ野球史上初の完全試合を達成した選手として知られている。1943年にノーヒットノーランを達成していた藤本選手は、その後も巨人のエース格として君臨。31歳となった1949年には沢村賞も獲得するなど、30代に入ってもその勢いは衰えなかった。
沢村賞を獲得した翌年の1950年も藤本選手は26勝(14敗)をマークし33完投とタフネスぶりを発揮。その一つの勲章が6月28日に行われた西日本パイレーツ戦(現埼玉西武ライオンズの傍系球団)における完全試合だ。
青森市営球場で行われたこの試合で先発した藤本選手は当初先発予定ではなく、移動中の船で麻雀を行っていたという。しかし、先発予定となっていた多田文久三選手の急病により代役となったのだ。
前回登板は6月20日となっており、中7日での登板となった藤本選手であったが、初回から走者を出さない投球を見せる。4回裏に待望の援護点が入ると、その後もパーフェクトピッチングを続け、史上初の完全試合を達成する。わずか92球で西日本打線を手玉にとり、外野に飛んだのはわずか3回だけという完璧な内容だった。
また、最後の打者は西日本の監督であった小島利男監督だったが、空振り三振でゲームセットとなった。新聞記者が数人しかおらず、写真も映像も残っていない。寂しい快挙達成となった。

不滅のシーズン記録を達成した1943年

藤本選手は1942年に明治大学から巨人軍に入団し無傷の10連勝を達成。東京六大学で34勝をマークした凄腕の、その片鱗を見せてくれた。1年目と同様に2年目も先発の柱として登板機会を得た藤本選手は、自身初のノーヒットノーランを達成するなど順風満帆な成績を残している。
なかでも、特筆すべきは1943年に達成されたシーズン19完封そして防御率0.73だ。いずれもプロ野球記録(19完封はタイ記録)となっており、2016年終了現在で破られていない。
10完封以上をマークしたのは1965年の村山実選手(11完封)が最後となっている。以降、50年以上も現れておらず、現代のプロ野球では破るのは難しい記録となっている。
シーズン防御率1点台未満は2016年シーズン終了時点で11名誕生しているが、戦後に達成したのは完封記録と同じように1970年の村山選手(0.98)ただ1人だ。完封記録と同じようにこちらも更新は困難となりそうだ。

藤本選手の1943年成績

登板数:56(リーグ1位)
先発数:46(リーグ1位)
完投数:39(リーグ1位)
完封数:19(リーグ1位/歴代1位タイ)
勝利数:34(リーグ1位)
敗戦数:11
 勝率:.756
投球回:432.2(リーグ1位)
奪三振:253(リーグ1位)
防御率:0.73(リーグ1位/歴代1位)

通算防御率1位は不滅の記録

多くの記録を作っている藤本選手だが、通算記録でも存在感のある数字を残している。残念ながら大正生まれのために名球会加入資格はないが、投手記録は通算投球回数が2000回を超えることで認められる。そのために藤本選手(通算2628.1回)は投手記録のランキングにはたびたび顔を出す。
なかでも、特筆すべきは歴代1位となっている通算防御率1.90だろう。同時代に活躍した野口二郎選手(1939年-1955年)の1.96、若林忠志選手(1936年-1953年)の1.99を抑え1位に君臨。
その後は「神様、仏様、稲尾様」の稲尾和久選手(1956年-1969年)が1.96を達成しているが、それから50年近く通算防御率1点台は誕生していない。1990年代以降にプレーした選手に限ると斎藤雅樹選手(現巨人二軍監督)の2.77となっており、不滅の記録と言えそうだ。

藤本選手の通算成績

登板試合数:367
投球回:2628.1回
完投数:227(歴代11位)
完封数:63(歴代8位)
勝利数:200
敗戦数:87
通算勝率.697(歴代1位)
奪三振:1177
通算防御率:1.90(歴代1位)

藤本選手はシーズン記録、通算記録共に不滅の記録を樹立しており、今後もプロ野球界にその名が残り続けることになるだろう。

おすすめの記事

関連記事

プロ野球 試合経過・結果

セ・リーグ

パ・リーグ

{{league_title}}

  • 本日開催される試合はありません

B1 順位表

東地区
中地区
西地区
:Bリーグ チャンピオンシップ出場チーム
:B1 残留プレーオフ出場チーム
チーム勝率
{{club.Rank}}{{club.TeamNameS}}
{{club.WinningCount}}{{club.LosingCount}}{{trimFirstZero(club.WinningRate)}}{{getFormattedGameBehind(club)}}
:Bリーグ チャンピオンシップ出場チーム
:B1 残留プレーオフ出場チーム
チーム勝率
{{club.Rank}}{{club.TeamNameS}}
{{club.WinningCount}}{{club.LosingCount}}{{trimFirstZero(club.WinningRate)}}{{getFormattedGameBehind(club)}}
:Bリーグ チャンピオンシップ出場チーム
:B1 残留プレーオフ出場チーム
チーム勝率
{{club.Rank}}{{club.TeamNameS}}
{{club.WinningCount}}{{club.LosingCount}}{{trimFirstZero(club.WinningRate)}}{{getFormattedGameBehind(club)}}

プロ野球 OPS順位

セ・リーグ
パ・リーグ
 選手名・所属チームOPS 
{{index + 1}}{{item.raw.Name}}{{item.raw['ShortName-Team']}}{{item.metrics.ops.toFixed(3)}}{{item.metrics.ops.toFixed(3).substring(1)}}
 選手名・所属チームOPS 
{{index + 1}}{{item.raw.Name}}{{item.raw['ShortName-Team']}}{{item.metrics.ops.toFixed(3)}}{{item.metrics.ops.toFixed(3).substring(1)}}

人気記事ランキング

SPAIA スポーツコラム ライター募集中!