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天国と地獄を味わった内川聖一選手のこれまで

2017 8/3 12:07cut
野球ボールとバット
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父と共に歩んだアマチュア時代

日本を代表する「安打製造機」として知られる内川聖一選手。
プロ入り前は父親である内川一寛氏に英才教育を受けていた。一寛氏はアマチュア時代に内野手としてプレーしていた経験を持ち、1993年夏には大分工業高校を甲子園に導いた高校野球の指導者だ。
内川選手も父が指揮を執る大分工業高校へ入学。主将になった2000年は夏の甲子園大分大会決勝まで勝ち進むも敗退。甲子園出場は果たせなかった。
一寛氏は、その後ユニフォームを脱いだ時期もあったが、2009年から大分県立情報科学高校で野球部監督として再び指導につく。情報科学高校は県予選で4強入りを果たすなど、野球では無名校であったにもかかわらず健闘している。
内川選手がプロで活躍する近年も、親子で「3割2分を目指す」「県大会ベスト8を目指す」など、お互いに野球の目標を約束として交わす野球を愛する親子として有名だ。
また、内川選手には高校1年の時に、「骨嚢腫(こつのうしゅ)」(骨に穴があき空洞となり、液体が溜まる難病)に襲われた過去がある。右足かかとに痛みが走り、手術を繰り返した結果、歩くのもやっとの状態にもなった。
10日ほどの寝たきり生活を懸命のリハビリで克服し、野球部に復帰。内川選手は「普通(の生活)が当たり前と思ってはいけない、野球ができることがありがたい」と改めて感じたという。

プロとしてのスタートは横浜ベイスターズ

高校1年時の難病の手術を乗り越えた内川選手は、甲子園には出場できなかったものの、高校通算43本塁打を放つ活躍を見せた。そして2000年のドラフトで横浜ベイスターズに1位指名を受け入団した。
そのとき「石井琢朗さんのような三拍子揃った選手が目標です」と語っている。同年のドラフトでは、読売ジャイアンツ1位指名の阿部慎之介選手、阪神タイガース4位指名の赤星憲広選手などが名を連ねていた。
内川選手は、1年目から一軍も経験、出場試合は少ないながらも2002年に打率.333を記録。翌2003年は開幕から目の不調や右手の握力の不調が続き、身体に異変を感じていた。6月に抹消されシーズン終盤に一軍に復帰し、打率.313と規定打席には届いていないものの2年連続での打率3割をマークした。 2004年は自身最多の17本塁打を放つなど、スタメンとして起用され結果を残したている。
しかし、その後は、「若手の有望株」と期待されながらも打率は2割台が続き、結果を残すことができなかった。
2007年のオフには「次のシーズンがダメなら辞める」と母親に相談。「本当にやるだけやってダメだったら帰ってきなさい」という言葉を受け、「2008年はとことんやろう」と新たな決心を固めたのだ。
一念発起した2008年に最多安打・首位打者のタイトルを獲得。打率は右打者史上最高打率である.378を記録した。コーチと二人三脚で打撃スタイルを根底から変え、並々ならぬ練習量をこなしたことがこの「覚醒」につながったと言えるだろう。

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