日米でチャンピオンを経験した「優勝請負人」井口資仁選手|【SPAIA】スパイア

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日米でチャンピオンを経験した「優勝請負人」井口資仁選手


戦国東都の本塁打記録を樹立

メジャーへ渡った数少ない日本人バッターの1人に、井口資仁選手がいる。
井口選手は、東京都内でも強豪の国学院久我山高校に入学し、遊撃手として活躍し、2年夏の甲子園にも出場した。国学院久我山高校は、私立の進学校ともいうことで、全体練習は2時間たらず。甲子園出場回数は圧倒的に少なかったが、それぞれが考え自主的にトレーニングしたことが、甲子園出場に繋がったのだ。また、「”甲子園に行きたい”という全員の意識の強さが、願いを叶えた」と井口選手は語っている。
高校卒業後は、青山学院大学に進学。大学では、1994年に三冠王(打率.348、8本塁打、打点16)を獲得し、東都大学野球連盟で通算本塁打数リーグ1位(24本)の結果を残した。この記録は、2016年現在でも破られていない。4年時はアトランタオリンピックの日本代表に選出され、銀メダル獲得に貢献した。これらの国際試合での経験が、メジャーへの道を考えるきっかけになったと語り、特にキューバの選手のレベルの高さに驚かされたと語っている。
1996年のドラフト会議では、福岡ダイエーホークスを逆指名し入団に至った。オリンピックイヤーで「当たり年」と言われたドラフトの超目玉選手だったこの年、青山学院大学のチームメイトである沢崎俊和選手は広島東洋カープ、清水将海選手はロッテと同大学から3人も1位指名を受けている。

ダイエーでコンスタントに活躍しメジャーへ

1997年の入団当初から、下位打線で起用されることが多かった井口選手。2年目には135試合に出場、打率は2割前半に終わったが、21本塁打を放ち存在感を見せた。以降も下位打線での出場が多かったが、1999年にはサヨナラ打を3度も放つなど、チャンスの強さを見せた。この年、ダイエーはリーグ優勝と日本シリーズ制覇を果たし、井口選手にとっては、初の優勝体験となった。
2000年に「井口忠仁」から「井口資仁」へと登録名を変更するも、故障の影響でわずか54試合の出場にとどまる。入団から5年目、転機となった2001年には、自身初の30本塁打を放ち、44盗塁で盗塁王となる。その後、2001年、2003年、2004年の各年3回はベストナインに選出され、ゴールデングラブ賞も受賞した。王貞治監督の助言などで打撃の形を変えたことが功を奏したのだ。
その後、井口選手は2004年までダイエーでプレーし、コンスタントな成績を残し海を渡ることになる。

4年間で2つのチャンピオンリングを獲得

2004年オフに自由契約を経て、メジャーリーグ移籍を目指した井口選手。契約を果たしたのは、シカゴ・ホワイトソックスだった。井口選手は、1年目から2番・二塁に定着し、打率.278、15本塁打、71打点、15盗塁とチームに貢献。アメリカンリーグ、ワールドシリーズ制覇を経験し、チャンピオンリングを手に入れた。これは、日本人選手2人目となるワールドチャンピオンだった。
この活躍で新人ベストナインに選ばれ「メジャーに通用する希少な日本人内野手」の印象を与えた。その翌年にあたる2006年開幕前に開催された、タイ1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では、日本代表に選出されるが、メジャーでのプレーを優先したいこともあり辞退している。
メジャー2年目も井口選手は1年目同様の成績を残すと、3年目に当たる2007年のシーズン中にトレードでフィラデルフィア・フィリーズに移籍。移籍先では、二塁手のレギュラー争いに勝ち残れず、8月後半から代打での出場がメインとなったが、45試合の出場で打率.304と結果は残している。
2008年は二塁手としてレギュラーでプレーするために、サンディエゴ・パドレスと単年契約を結ぶ。2008年始めは無安打が続き絶不調。怪我もあり、故障者リスト入りすると9月にはパドレスに解雇。その後、前年に在籍したフィリーズと再契約する。フィリーズはこの年ワールドシリーズを制覇。井口選手は移籍期限後の契約となり、ポストシーズンに出場はできなかったものの、チームメイトの田口壮選手とともに自身2度目の世界一を経験した。
後に、メジャーでのプレー対戦相手は、テレビでしか見た事のない選手ばかりで、「毎日が記念日のように楽しくて仕方なかった」と語っている。

日本復帰を選択しロッテを背負う

井口選手は、2008年シーズンオフに複数のメジャーチームからオファーがあったと噂されたが、日本復帰を決断。古巣のソフトバンク(ダイエーの後継球団)ではなくロッテと3年契約を結ぶ。背番号はかつて落合博満選手が背負っていた「6」となった。
ロッテ移籍1年目から123試合に出場し、打率.281、19本塁打、65打点の成績でチームに貢献。翌2010年チームは井口選手は、二塁打44本、四死球112とリーグトップをマークする活躍を見せ、クライマックスシリーズに進出。ポストシーズンを勝ち抜いたロッテは日本シリーズも制し、井口選手は所属4球団でチャンピオンとなったことになる。
以降もベテランとしてチームを引っ張りつつ成績を残し、2012年にプロ野球通算200本塁打を記録。2013年には一塁手にコンバートされ、指名打者としても打席に立つようになる。そしてこの年、日米通算2000本安打を達成。2000本目は、楽天のエース田中将大選手からのソロ本塁打で記録を達成し、名球会入りの資格を手にしている。
井口選手は、まさにチームの柱として若手選手を引っ張ってきたのだ。

球界最年長選手として

井口選手も年齢を重ねるごとにスタメンでの出場機会が減り、2016年からは代打での出場が増えている。2017年は日本球界最年長野手となり、ベテランとしての存在感を見せている。
日本一の経験は、ダイエーでの2回とロッテでの1回、メジャーでは、ホワイトソックスとフィリーズで1回ずつ世界一に輝いた井口選手は「優勝請負人」といっても過言では無い。本人がブレイクのきっかけとなったのは、打率も2割5分以下で、いまひとつ結果の残せないダイエー時代のことだ。「何かタイトルを」というコーチの助言から、盗塁王のタイトルを狙いに行き、見事獲得。まず塁に出なければ盗塁もできない。盗塁王をとることで打率、本塁打数、打点も好成績を残した。
それから、選手人生を大きく開花させることになり、世界一のチャンピオンリングを手にするまでに至ったのだ。「漠然とした大きな目標を立てるより、具体的な小さな目標の方が重要」と気づいたという。コーチや恩師の言葉を大切に、根気よく小さな目標をクリアしていった井口選手。これが、野球選手としてコンスタントに好成績、息の長い活躍が見られる秘訣と言えそうだ。

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