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現役引退後は苦労の連続だった山本浩二監督【球史に名を残した偉人達】

2017 6/28 09:44cut
野球、ヘルメット
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「ミスター赤ヘル」黄金の現役時代

広島東洋カープの代名詞といえば山本浩二選手・元監督だ。山本選手は法政大学出身、大学野球で大活躍し、ベストナインに選ばれるなど、田淵幸一選手、富田勝選手とともに「法政三羽ガラス」と呼ばれ、大学野球界のヒーローとなった。
山本選手はその後、出身地である広島カープに入団。「大器晩成型」と言われながらも、入団5年ほどで頭角をあらわし、75年には初優勝に大きく貢献したのだ。その年を含め5度のリーグ優勝、3度の日本一においても欠かせないバッターとして、ホームランはもちろん、引退に至るまで高い打率を誇った。
プロ通算成績は2284試合、2339安打、536本塁打、打率.290で、本塁打数は大学出身者で最高記録、本塁打王4回、打点王3回、最優秀選手2回、10年連続ゴールデングラブ賞受賞など、驚くべき記録を保持している。その功績をたたえ、山本選手が背負った広島カープの背番号「8」は永久欠番となった。
86年には、まだその年には27本もホームランを放っていたものの、持病の腰痛もあり大変惜しまれつつ引退した。その後は監督として広島カープを牽引する存在となる。

広島カープ監督就任 第1期

山本浩二氏は引退後、解説者や評論家として暖かい広島弁を操る姿がテレビでもよく見られるようになった。
引退から3年後の1989年から山本氏は、広島東洋カープの監督に就任する。1989年、1990年は2位、そして1991年には広島はリーグ優勝を果たす。「投手王国絶頂期」といわれ、佐々岡真司選手は最多勝と最優秀防御率、川口和久選手が最多奪三振、北別府学選手も最高勝率、大野豊選手は最優秀救援と投手タイトルを独占し、驚異の投手力で他チームを圧倒した。
黄金時代を知る投手陣と達川光男捕手のバッテリーも優勝に導いた要因と言えるだろう。前田智徳選手も最年少でゴールデングラブ賞を受賞する守備力を見せた。のちに監督にもなる野村謙二郎選手も盗塁を次々と決めるなど、粘り強いチーム力を発揮しての結果だった。
広島は日本シリーズでは3勝2敗で王手をかけたものの西武ライオンズに敗戦し、日本一とはならなかった。この優勝を最後に、2016年まで25年もの間、カープはリーグ優勝から離れることになる
1991年の優勝を振り返るにあたり、当時の山本監督にとって津田恒実選手の存在が忘れられないと後に語っている。7月上旬、発表では「水頭症」とされていたが、実は津田選手は悪性脳腫瘍だった。「ツネのためにも頑張ろうじゃないか」と、津田選手に対する思いがチームをまとめたのだ。
親友だった星野仙一監督の率いる中日との優勝争いを制し、リーグ優勝。みんなの心の中で戦ってくれた津田選手は優勝の二年後に亡くなった。山本監督は「彼を抜きに91年の優勝は語れない」と当時を思う。
粘りを見せた優勝から一転して1992年は4位に転落、1993年は最下位の苦汁を飲むと、責任をとって山本監督は監督を辞任することになった。

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