20年の現役生活から引退後4年で監督へ
金田正一選手は選手時代に大きな実績を残し、1969年に巨人を引退。現役生活は20年に及び、現代野球では達成不可能であろう通算400勝を達成している。
400勝を達成するにあたり金田選手はトレーニングをするのはもちろん、食生活、身体のケアなど、近年では当たり前となっていることを50年以上も前の時代から行っていたのだ。「金田天皇」とも呼ばれるほど傍若無人に振る舞っていたと言われていたが、金田選手は理論も備わっていたのだ。
引退後は監督、コーチになることもなく1970年から1972年までテレビ、ラジオの解説者を務めながらタレントとしても活躍していた。その金田選手が監督として現場に復帰したのは1973年のことになる。1970年に優勝しながらも1971年に2位、1972年に5位となっていたロッテオリオンズの監督へ就任が決まったのだ。
金田選手は現役時代を国鉄スワローズ、読売ジャイアンツで過ごしていたこともありパリーグ、そしてもちろんロッテでのプレーはない。選手時代にあれほどの成績を残した金田選手が監督の立場になって、どのような采配を振るうのかに注目が集まった。
2年目となる1974年に日本一
金田選手は1973年にロッテの監督へ就任し初めての指揮を振るう。このシーズンからパリーグは1シーズン制から前後期の2シーズン制となった最初のシーズンでもあった。ロッテは70勝49敗11分の総合2位となった。1972年シーズンは59勝68敗3分と9個の借金を抱えていたチーム状況から立て直すことに成功したのだ。
翌1974年シーズンは前期2位、後期1位で初めてプレーオフに進出す。シーズンでは金田監督の実弟でもある金田留広選手が16勝7敗、防御率2.90の成績で最多勝、最優秀選手に輝く活躍を見せ、まさに金田一家で優勝を勝ち取った。
このプレーオフでは前期で1位となっていた阪急ブレーブスと対戦する。第1戦、第2戦とビジターである西宮球場でロッテは連勝し、第3戦でホームである県営宮城球場へともどった。雨天中止を挟んで迎えた一戦でロッテは阪急を3-0で完封。みごとに3連勝で日本シリーズへと進出を決めたのだ。
日本シリーズではセ・リーグ王者の中日ドラゴンズと対戦する。中日に1勝2敗と劣勢に立たされるが、そこから3連勝を果たしみごとに優勝を達成した。この年はミスタープロ野球こと長嶋茂雄選手の引退年度と言うこともあり「長嶋が最後の年だったから巨人とやれなかったのは残念」とも語っている。
1975年以降は再び低迷
1974年シーズンに日本一となり連覇が期待された1975年シーズン、前期でまさかの最下位となる6位に転落してしまう。後期では2位になったものの年間を通じて59勝65敗6分と負け越してしまった。
前期失速の要因は金田監督の体調不良も影響があった。4月下旬から5月上旬にかけて心臓発作を起こし休養を取ったのだ。さすがの鉄人金田監督も心臓発作には勝てなかった。
1976年以降も金田監督は目立った成績を残すことができず、1977年の後期で優勝し阪急とプレーオフを戦うが2勝3敗で敗れ日本シリーズ進出はならない。1978年シーズンには成績の低迷、選手からの求心力ダウンと重なり更迭されてしまう。
金田監督晩年は「まさかり投法」の村田兆治選手、ミスターロッテの有藤道世選手、兄弟助っ人のレロン・リー選手、レオン・リー選手など有力選手らが揃っていたにも関わらず結果を残すことができなかったのだ。
1990年に2度目の監督就任
1978年に監督を更迭された金田監督はテレビ解説者に戻るが、1990年に再びロッテの監督に就任した。1978年以来12年ぶりに復帰したのだ。ロッテは自身が優勝を果たした1974年シーズン以来、優勝はなく1980年、1984年、1985年と3度の2位が最高成績となっていた。
この当時のロッテは1987年に有藤監督が就任して以降、5位、6位、6位と最下位争いが続いており金田監督には1973年の時のような再建が期待されたのだ。
1990年シーズンは4月を7勝4敗と首位の西武ライオンズに2.5ゲーム差と開幕から好調なスタートを切った。しかし、5月は8勝14敗と6つの負け越し、6月、7月も連続で負け越し回に沈んでしまう。8月以降に盛り返すも時すでに遅く首位から25ゲーム差をつけられた5位に終わってしまう。
翌1991年は6月から最下位に転落すると浮上することなく首位から33.5ゲーム差を離された最下位に沈み監督を退任する。2度目の金田監督はいいところがなく終わってしまった。また、この年で本拠地を川崎から千葉へ移転することも決まっており、川崎時代の最後の監督として名前を残す。
珍プレー好プレーにも取り上げられる暴行事件
2度目の監督就任となった1990年に低迷をした原因の一つに金田監督の出場停止30日という事実がある。これは金田監督が審判に対し暴行を行ったための処分でもあった。
それは1990年6月23日の試合で起きた。西武対ロッテの一戦でロッテの園川一美投手が、セットポジションでの静止がなかったとして高木敏昭球審からボークを宣告される。この判定に対して金田監督が猛抗議を行い高木球審の胸を殴る。その瞬間に金田監督は退場を宣告されるが、さらに蹴りを入れるなど暴行を加えたのだ。
この事態を重く見たパリーグは金田監督に罰金100万円と30日間の出場停止処分を科したのだ。暴行を受けた高木球審はシーズン途中にも関わらず「こんな人間がいるところで審判をやってられるか」と激怒し辞表を提出す。
このシーンは後にプロ野球珍プレー好プレーでも取り上げられることが多く、金田監督のエピソードとして最も有名なものの一つかもしれない。この30日間の離脱がありロッテは波に乗れず下位に低迷したとも言えそうだ。
選手時代に数々の大記録を打ち立てた金田選手だが、監督としては大きな実績を残すことができなかった。「名選手、名監督にあらず」というプロ野球界では有名な格言があるが、まさにその言葉通りとなってしまった。しかし、監督としての実績が乏しくても選手時代の輝かしい記録は残る。400勝投手の金田選手はプロ野球の歴史に燦然と輝き続けるだろう。