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ローテーションの原型を考案!藤本定義監督【球史に名を残した偉人達】

2017 6/28 09:44cut
baseball ball
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1974年に野球殿堂入り

1974年に野球殿堂入りも果たしている藤本定義監督。1981年に亡くなられているが、その功績は大きく2017年の現在でも語り継がれている。また、野球ファンが歴史を紐解いたときに名前が頻繁に登場する人物でもある。
藤本定義監督はプロ野球選手としての経歴はなく高校野球、大学野球のみのプレー経験しかない。1904年に愛媛県松山市で生まれ松山商業高校、早稲田大学へと進学。早稲田大学を卒業後に現在のJR東日本にあたる東京鉄道局の監督に就任した。
その後、1935年に東京巨人軍の監督へ就任する。このとき、藤本定義監督は31歳だった。巨人で圧倒的な実績を残しその後は太陽ロビンス、大映スターズ、阪急ブレーブス、阪神タイガースの監督を1968年まで務めている。
1968年に阪神タイガースの監督を引退後は評論家、テレビの野球解説などを務め1974年に競技者表彰として野球殿堂入りを果たす。同時に殿堂入りを果たしたのは初代ミスタータイガースこと藤村富美男選手、甲子園球場の設計者であり阪神タイガースのオーナーも務めた野田誠三氏だった。藤本定義監督も阪神で8年間監督を務めていたこともあり阪神タイガース関係者が揃って殿堂入りを果たしたことになるのだ。
その後も評論家活動続けていたが1981年に76歳で亡くなっている。

※太陽ロビンス:横浜DeNAベイスターズの傍系球団
※大映スターズ:千葉ロッテマリーンズの傍系球団
※阪急ブレーブス:オリックス・バファローズの前身球団

プロ野球の歴史の第一歩

藤本定義監督が最初にプロ野球のチームを率いたのは1936年の東京巨人軍だった。初めて公式戦が開始されたこの年の夏季リーグで7試合2勝5敗の成績を収めた。この当時は2017年現在のような1年間を通してペナントレースを行うかたちではない。
第1回日本職業野球リーグ戦では甲子園大会、鳴海大会、宝塚大会と3つの場所でそれぞれ大会をそれぞれ行い優勝を争っていたのだ。この第1回リーグ戦に東京巨人軍は参加していない。アメリカ遠征を行っていたからだ。アメリカ遠征から戻った直後に藤本定義監督が合流。監督へ就任し、夏の連盟結成記念全日本野球選手権に参加する。
この大会では東京大会、大阪大会、名古屋大会と3つの地で大会が行われるが東京巨人軍はいずれの大会でも優勝することはできず、通算で2勝5敗という成績で初めてのリーグ戦を終えたのだ。
この歴史ある1936年に開始されたプロ野球。参加したのは下記の7球団だ。

【初年度参加の7球団】
大日本東京野球倶楽部(巨人)
大阪野球倶楽部(タイガース)
名古屋野球倶楽部(名古屋金鯱軍)
東京野球協会(セネタース)
大日本野球連盟名古屋協会(名古屋軍)
大日本野球連盟東京協会(大東京軍)
大阪阪急協会(阪急)

巨人での黄金時代を築くまで

初めて参加した公式戦で2勝5敗と好成績を残すことができなかった東京巨人軍。この結果を受けて藤本定義監督は三原脩選手を助監督とし猛練習を行う。後に「三原マジック」で一世を風靡する三原監督だがこの当時は選手としてプレーしていたのだ。また、藤本監督と三原選手はともに早稲田大学の出身でもあり、年齢は藤本監督の方が7つ上だった。
この猛練習の成果もあり翌1936年秋に行われた第2回全日本野球選手権大会で東京巨人軍は優勝を果たす。各大会で勝ち点は大阪タイガースと並んでいたがプレーオフを2勝1敗で勝利したのだ。
また、この年の最多勝には沢村栄治選手が13勝を挙げ輝いている。現在、先発投手にとって最高の栄誉である沢村賞の起源となっている沢村投手は初代の最多勝投手でもあるのだ。
翌1937年春のリーグ戦でも東京巨人軍は41勝13敗2分、勝率.759の成績を残し優勝に輝く。この年も沢村村手は大活躍し最多勝利、最高勝率、最優秀防御率、最多奪三振を獲得しMVPを受賞している。
藤本監督は沢村選手を中心にリーグ戦を勝ち抜いたのだ。

第1次黄金時代へ

1936年秋季リーグ戦で優勝を果たした藤本監督は1937年春季リーグでも優勝を達成。1937年秋季リーグ、1938年春季リーグと2位に甘んじてしまう。一念発起して臨んだ1938年秋季リーグから1942年まで5連覇を達成。巨人の第1次黄金期を確立する。

【5連覇中の成績】
1938年秋:40試合30勝9敗1分 勝率.769
1939年:96試合66勝26敗4分 勝率.717
1940年:104試合76勝28敗 勝率.731
1941年:86試合62勝22敗2分 勝率.738
1942年:105試合73勝27敗5分 勝率.730

5連覇中の勝率は前シーズン7割を超えており驚異的な強さを誇っていることがわかる。この当時の巨人は沢村選手だけでなく通算303勝のヴィクトル・スタルヒン選手、通算209勝の中尾碩志選手、初代三冠王の中島治康選手、打撃の神様こと川上哲治選手らがおり後のプロ野球史へ名前を残している選手が数多く在籍していた。それらのスター選手をマネジメントする力に藤本監督は長けていたのだ。
1942年シーズンで藤本監督は巨人を退団するが、7度の優勝を果たし名将として大きな功績を残す。

ローテーション制度の考案

2017年現在では当たり前になっている先発投手のローテーション制度。日本では中6日、メジャーリーグでは中4日がトレンドとなっている。日本ではローテーション制度が確立する以前、大エースと呼ばれる選手が毎日のように登板するのが一般的だった。
しかし、80年前の1937年に藤本監督はローテーションの基礎となる起用を行っていた。それは、「2連戦において沢村選手を初戦に登板させ2戦目にスタルヒン選手もしくは前川八郎選手を投げさせる」と発言していたことからわかる。また、先発予定の選手には事前に登板予定を伝えておくなど時代を先取りしていた。
この戦前にローテーションを考案した藤本監督は巨人の監督を退いた後、阪急、阪神などで実践に移している。現在のローテーションに当たる考え方が80年前に考案されており、時代を超えて残っていることに野球の奥深さがうかがえる。
藤本監督は巨人で監督としてのキャリアをスタートさせ、第1次黄金時代を築き、その後のさらなる活躍へと続けていくのだ。