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横浜DeNAベイスターズの18番を背負ってきた名選手5人

2016 8/13 15:01
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悲運の名投手・権藤正利

往年のファンに「大洋ホエールズのエースと言えば?」と聞くと、権藤正利の名前が真っ先に上がるのではないだろうか(権藤の入団当初は大洋松竹ロビンス→洋松ロビンス)。28連敗を記録しており、通算成績は117勝154敗と37もの負け越しが目立ってしまうが、通算防御率は2.775という立派なものだ。この数字を見れば、いかにチーム事情が苦しかったのかがよく分かる。

少年時代のケガや、大病、金田監督との確執からの監督殴打事件など、不運な事件が相次いだが、硬骨を貫いた「昭和の男」という感じの投手だった。

カミソリシュート・今西錬太郎

大洋ホエールズ時代の背番号18番を最初に背負ったのが、名投手・今西錬太郎だった。浪商から日鉄二瀬を経て1946年に阪急に内野手として入団したが、投手不足のためにピッチャーに転向し、翌年には21勝を挙げるという恐ろしい活躍をした投手だ。1948年には23勝、1949年には19勝を挙げているが、これでも最多勝を獲得できないところが昭和初期から中期の野球のすごいところだ。

1950年の2リーグ制開始にともない、大洋ホエールズに移籍。弱小球団ながら10勝を挙げ、阪急時代を含め4年連続2ケタ勝利を記録している。今では珍しいアンダースローからのシュートが持ち味で、当時巨人にいた川上哲治が「カミソリのような切れ味」と評したほどだ。

完全試合・佐々木吉郎

佐々木吉郎は、日本プロ野球の長い歴史で完全試合を達成した15人の投手のうちの一人だ。秋田商業高等学校時代、最初は捕手だったが、試合中に突然投手交代をつげられマウンドに上がって以来投手になったというエピソードがある。

日本石油野球部(現・JX-ENEOS野球部)を経て、1962年に大洋ホエールズに入団。社会人野球時代には2年連続優勝するなど実力者として知られていたため、大洋でも即戦力として期待されていた。しかし、肘に持病があり期待通りの成績は残せなかった。

1966年の完全試合達成についても、もとは偵察メンバーだったが「ヒットを打たれるまで投げろ」と言われ、その通り投げ続けたら打たれずに終わったという逸話が残っている。

レフティーカルテット・岡本透

1987年にドラフト2位で横浜大洋ホエールズに入団した岡本透。社会人野球・川崎製鉄神戸時代には、1986年と87年に2年連続優秀選手賞を獲得している。

大洋に入団後は野村弘樹、新浦壽夫、田辺学らとともに左腕カルテットを構成。1990年にはチーム最多の52試合に登板し、1991年は30試合で11勝、1992年は27試合で8勝を挙げている。

しかし翌年以降、登板過多が祟ったのか、ケガの影響も受け目立った成績を残すことはなく、1995年に引退。その後はコーチや広報として活躍した。

ミスターベイスターズ・三浦大輔

19年にわたり横浜ベイスターズの18番を背負った「ハマの番長」こと三浦大輔。チームの支柱的存在で、2014年からは投手コーチも兼務している。また、試合で活躍した選手がインタビューなどで「三浦さんにステーキをおごってもらったおかげです」と答えていることから、面倒見が良い事も伝わる。

高田商業高校時代は決勝で天理高校に敗れ、甲子園出場が叶わなかった。だが、1991年のドラフトで6位指名され横浜大洋ホエールズに入団(当時の背番号は46)。対・阪神タイガース戦に強かったことから「タイガースキラー」と言われ、FA権を獲得した際は阪神が好条件で獲得を望んだとされる。

球団は2016年に三浦の功績に敬意を表して背番号「18」を「横浜ナンバー」とし、準永久欠番に決定。今後は着用にふさわしいとされる選手が現れた場合にのみ、球団と三浦による協議を経て継承される。