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東京ヤクルトスワローズの歴代監督がチームに残したモノ

2016 8/13 15:01
神宮球場,ⒸSarunyu L/Shutterstock.com
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ⒸSarunyu L/Shutterstock.com

人材育成のプロ“関根潤三”

元祖二刀流として16年間は近鉄でプレーし、現役最後の一年間を巨人で過ごした関根潤三は1965年限りで引退を決意。その後、解説者やコーチを経て大洋ホエールズの監督に就任した。そして、3年間で屋鋪要、高木豊ら後の大洋ホエールズを支える選手たちを育成した。

ヤクルトスワローズの監督に就任したのは1987年だった。しかし、監督として成績面では実績が残せず、一度もAクラスに入ることは叶わなかった。だが、人材育成の功績は大きかった。後に訪れる「ヤクルト黄金期」にチームの主力となって活躍する池山隆寛、広沢克己、栗山英樹、荒木大輔などを育てたのは関根だ。関根がいなければ、このヤクルトスワローズの優勝は無かったと言っても過言ではないだろう。

ID野球の礎“野村克也”

関根が残した遺産ともいえる有力な選手を起用し、90年代初期に「ヤクルト黄金期」を作ったのが野村克也だ。

野村がチームのスローガンにも掲げ実践したのが、当時はあまり活用されてなかった”ID野球”だった。試合中に相手の動きを分析しデータ化、それを活用することで総合的に強化したのだ。結果、9年間の監督期間中に4度のリーグ優勝と3度の日本一をもたらした。

当時の教え子である栗山英樹や真中満が引退後に監督を務めていることも、野村が残した実績の一つと言えるのかもしれない。

ミスタースワローズこと“若松勉”

「ファンの皆様、本当にあの~、おめでとうございます」の挨拶で知られる若松勉。野村の後任として7年間監督を務め、Aクラス4回、うち1回は日本一に導いた監督だ。

選手時代から真面目で温厚、退場処分も一度しかなく、慕う選手も多かったようだ。「おめでとうございます」の発言についても、ファンに感謝の気持を伝えるために選んだ言葉だったと明かしている。

29年ぶりの選手兼任監督“古田敦也”

選手兼監督として2年間ヤクルトを率いた古田敦也。選手兼監督は南海ホークス時代の野村以来となる実に29年ぶりのことだった。

古田は監督として采配を振るうだけでなく、選手としてグラウンドに立つこと、そしてファン獲得に対しても非常に熱心に取り組んだ。現在の「東京ヤクルトスワローズ」にチーム名を変更する際も、チーム名に”東京”を入れると「地元のチーム」と思えて愛着が湧くと提案をしたのは古田だった。

名将・真中への第一歩“真中満”

2015年に小川淳司から監督のバトンを受け継いだ真中満。真中といえば、2015年のドラフト会議ではハズレくじを引きながら当たったと早とちりしガッツポーズを披露したエピソードが有名だが、監督就任1年目に14年ぶりのリーグ優勝を果たすという大きな功績も残している。

リーグ優勝した年に中心となり活躍した選手は自身が二軍監督時代に育てた選手が多かったため、「教え子たちと共に優勝した」という表現もすんなり当てはまる。また、選手時代に野村監督のもと日本一を経験していたため、どのようにシーズンを戦えばよいかも良く理解していたようだ。