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横浜DeNAベイスターズの歴代監督がチームに残したモノ

2016 8/13 15:01
イメージ画像,ⒸMtsaride/Shutterstock.com
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須藤豊

1990から1992年のシーズン開幕まで、横浜DeNAベイスターズの前前身である横浜大洋ホエールズの監督だった須藤豊。就任年に3位の成績を残し、Aクラス入りを果たした。

「最も優れた投手がストッパー(抑え)を務めるべき」が須藤の思想で、これに基づき誕生したのが「ハマの大魔神」こと佐々木主浩だ。伸びのあるストレートと驚異的な落差のフォークボールを武器に、奪三振の山を築いた佐々木はベイスターズのみならず日本球界屈指のストッパーとなった。

大矢明彦

1996年から 97年と2007年から 09年、2期にわたる計5年間を横浜ベイスターズの監督を務めた大矢明彦。大矢がチームに残したことと言えば、谷繁元信を育てたことではないだろうか。

近藤昭仁が監督だった頃にバッテリーコーチをしていた大矢は、徹底的に捕手としてのリード技術と打撃面を谷繁に指導。そして大矢が監督になってからは、それまでレギュラーとして定着していなかった谷繁を積極的に起用した。

その甲斐あって著しい成長を遂げ球界を代表する捕手になった谷繁は、現在、中日ドラゴンズの監督を務めている。

権藤博

権藤博がチームに残したモノは、輝かしい成績ではないだろうか。

近年は優勝争いから遠のき厳しいシーズンが続いているDeNAだが、権藤がチームを率いた1年目は実に38年ぶりとなるリーグ優勝と日本一を手に入れた。その後、2000年まで監督を務め、全てのシーズンをAクラスで終えた。権藤の引退を惜しむ声が非常に多かった。

森祇晶

権藤の「奔放主義」から一転、「管理主義」をとった森祇晶だったが、球団フロントサイドとの軋轢により横浜では思うような成績を残せなかった。また、日本一6回、リーグ優勝8回というあまりにも凄すぎる西武監督時代の実績が、どうしても横浜監督時代の実績をかすめてしまった。

だが、監督として選手の特性を見抜き才能を開花させることに長けており、就任初年度にAクラス入りを果たしているあたりは流石と言える。メジャーに行った佐々木の穴を埋めるべく、斎藤隆を抑えに転向させたのも森だった。この起用が成功し、2001年に防御率1.67の好成績をおさめた斎藤は、メジャーリーグに移籍した際「この時の経験が役立っている」と答えている。

牛島和彦

豪快な人柄で、若いころのヤンチャ話を語られることが多い牛島和彦。本人は「ヤンチャな頃もあったけどそこまでではない。ネットの噂が1人歩きして困っている」と話しているが、大阪浪商時代に79年春の甲子園大会決勝で「投げとんのはオレや。黙って見とけ!」と監督に伝えるよう“伝令役”に指示した話をはじめ、武勇伝をあげればキリがない。

監督就任初年度からAクラス入りを果たし監督としての実績も確かだったものの、2年目はチームが不振だったため責任の取り自ら辞任し、「男気」を見せつけた。