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【球史に名を残した偉人達】苦難の時代から国民栄誉賞へ・長嶋茂雄監督

2017 5/17 09:55cut
野球ボール,ヘルメット,バット
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巨人監督就任初年度は最下位

1974年、長嶋茂雄選手が現役を引退。巨人が10連覇を逃し川上哲治監督が退任とプロ野球は大きな転機を迎えました。 その川上監督の後を受けて1975年から巨人の監督に長嶋選手が就任します。背番号は現役時代の「3」ではなく「90」でした。
長嶋監督は前監督である川上監督時代のコーチや参謀を排除。自身で腹心を集めチームを構成します。新長嶋体制で臨んだ巨人ですがシーズンでは力を発揮できず最下位に終わります。9連覇達成から2位となり翌年には最下位となってしまったのです。これは巨人の歴史でも初めてのことでした。
翌1976年は長嶋監督にとって大きな意味を持つ年となりました。最下位に沈んだシーズンからの脱却を図るべく大型トレードを敢行します。打者では日本球界で通算最多安打を放つことになる張本勲選手を獲得。投手ではポーカーフェイスで鉄仮面と呼ばれていた加藤初選手を補強します。
後に長嶋監督はFAなどで各チームの主力打者を集めますが、その始まりは監督就任1年目のオフだったのかもしれません。
この一連の流れで巨人フロントは、当時南海ホークスの選手兼任監督として活躍していた野村克也選手に接触していました。ヘッドコーチ兼任監督として招き入れようと画策していたのです。野村選手は快諾したものの長嶋監督が拒んだためこの話は立ち消えとなりました。
長嶋監督に野村ヘッドコーチ。幻に終わったこのコンビですが、実現していたらどのような体制になったのでしょうか。もしかしたら、両雄並び立たないのかもしれません。非常に興味深いものがあります。

2年目は最下位から優勝と波乱万丈

就任1年目に最下位となった長嶋巨人ですがオフの大補強を経て臨んだ1976年シーズンは快進撃を見せました。大型補強の成果も出てリーグ優勝を果たしたのです。張本選手は130試合全試合に出場し打率.355、22本塁打、93打点の活躍。加藤選手は46試合に登板し15勝4敗の成績を残しました。2人はトレード1年目という重圧をはねのけ優勝に大きく貢献したのです。
日本シリーズではパ・リーグ覇者の阪急ブレーブスと対戦します。長嶋巨人は3連敗スタートしますが4戦目から逆に3連勝。3勝3敗のタイで最終第7戦を迎えます。7戦目は6回終了時点で2-1と巨人リードで試合は進みましたがそこから逆転負け。3勝4敗で惜しくも日本一には手が届きませんでした。
2年目の長嶋巨人は屈辱の最下位から浮上し日本一まであと一歩まで迫ったのです。翌1977年もリーグ優勝を飾りセ・リーグ連覇。しかし、1978年から1980年まで3年連続のV逸(勝利を逸するの意)となり監督を退任します。

松井秀喜選手とのマンツーマントレーニング

1980年に巨人の監督を退任した長嶋監督は10年以上も現場を離れます。監督に復帰したのは1992年オフのことでした。2回目の監督就任となった長嶋監督の背番号は「33」です。
このオフに長嶋監督は巨人の監督として最も大きな仕事をやってのけたと言ってもいいでしょう。ドラフト会議において目玉である星稜高校の怪物スラッガーを引き当てたのです。その怪物スラッガーとは松井秀喜選手のことです。松井選手は夏の甲子園で社会的現象にもなった「5打席連続敬遠」をされるなど注目度の高かった選手でした。ドラフト1位で松井選手に入札したのは巨人、中日、阪神、ダイエーの4球団です。
くじを引いた長嶋監督は当たりを確認すると笑顔でサムアップ。監督就任直後に大仕事をやってのけたのです。松井選手は2年目となる1994年からレギュラーとして活躍しますが4番としての出場はありませんでした。初めて4番に座ったのは1995年8月ですが落合博満選手の欠場した3試合のみで定着ではありません。
後に巨人の4番として君臨する松井選手も若手時代は4番ではありませんでした。徐々に成長していったのです。その成長の過程には長嶋監督による「松井秀喜4番1000日計画」がありました。巨人をおして日本を代表する打者に育てるために日々、素振りを続けました。東京ドーム、遠征先の宿舎、長嶋監督の自宅と至る場所でマンツーマンのトレーニングは続きます。
長嶋監督の根気の入った指導の甲斐もあり松井選手は球史に残る選手へと成長しました。

国民的行事と呼ばれた1994年10月8日

1994年のペナントレースは中日とデッドヒートを繰り広げ、最終戦での勝利チームが優勝となる大一番を迎えました。最終決戦が行われる10月8日を前に長嶋監督はこの日のことを「国民的行事」と発言。世の中の注目を集めます。
国民的行事と呼ばれた10月8日。巨人は槙原寛己選手、斎藤雅樹選手、桑田真澄選手のエース格3人を惜しげもなくつぎ込み6-3で勝利。2度目の監督就任では初の優勝を飾ります。
日本シリーズの相手は9連覇時代にともに巨人で戦った森祇晶(もりまさあき)監督率いる西武ライオンズでした。この日本シリーズで巨人は4勝2敗で勝利し長嶋監督は初の日本一に輝きました。
長嶋巨人に敗れた西武の森監督は辞任。森西武の黄金時代は長嶋巨人が引導を渡したのです。

アテネオリンピックから国民栄誉賞

1993年に2度目の監督就任を果たし2001年まで9年間に渡り巨人の指揮を撮りリーグ優勝3回、日本一2回の実績を残し勇退したいます。
その後、コーチ職などを務めることはありませんでしたが2004年のアテネオリンピックへ向けた日本代表チームの監督に就任しました。当時は現在のように「侍ジャパン」といった愛称もなく「長嶋ジャパン」として戦います。
2003年のアジア選手権で優勝しオリンピックの出場権を獲得。しかし、2004年の本大会へ向けてチームづくりをしていく矢先、病に倒れてしまいました。2004年3月に長嶋監督は脳梗塞を発症してしまうのです。そのため代表監督として指揮を執ることはできませんでした。その後はリハビリを続けながら節目の行事で公の場に姿を表しています。
選手、監督としてプロ野球界だけでなく世の中に大きな影響を与えた長嶋監督は2013年に国民栄誉賞を授与されます。5月5日に東京ドームで授与式が行われ長嶋監督、松井秀喜氏、原辰徳監督、安倍晋三首相による始球式が行われました。
1936年生まれの長嶋監督は2017年で81歳です。しかし、脳梗塞の後遺症などはあるものの肉体的には元気ということもあり、プロ野球界の出来事に対して様々なコメントを発しています。「ミスタープロ野球」は年をとっても野球界のことを常に考えているのです。これからも元気なコメントに期待したいと思います。