【球史に名を残した偉人達】攻守に渡ってチームを牽引・古田敦也選手|【SPAIA】スパイア

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【球史に名を残した偉人達】攻守に渡ってチームを牽引・古田敦也選手


アマチュア時代はオリンピック銀メダル

古田敦也選手は川西明峰高校から立命館大学へ進学。関西学生野球連盟でベストナインに4度選ばれ、大学日本代表にも選ばれるほどの選手に成長します。ドラフト候補の1人として注目を浴びていたのです。
しかし、大学4年時の1987年ドラフトで古田選手の名前が読み上げられることはなくトヨタ自動車に就職します。この年のドラフト1位は大卒では長嶋一茂選手(ヤクルト)、高卒ではPL学園の立浪和義選手(中日)、橋本清選手(巨人)、野村弘樹選手(大洋)らが指名されています。
トヨタ自動車へと進んだ古田選手は1年目からレギュラーを獲得し、1988年にはソウルオリンピック日本代表にも選ばれます。日本代表では野茂英雄選手(元近鉄)、潮崎哲也選手(元西武)らとバッテリーを組みました。また、チームメートには野村謙二郎元広島監督や應武篤良元早稲田大学監督なども揃っていました。
そのオリンピックで古田選手は5試合に出場し打率.353、0本塁打、4打点の成績を残し銀メダルに貢献します。アマチュアでの活躍が認められ古田選手は1989年のドラフトでヤクルトから2位指名を受け入団に至ります。
「メガネを掛けた捕手は大成しない」と言われていた時代ですがドラフト上位で指名されたのです。ヤクルトの監督は名捕手として南海ホークスなどで活躍した野村克也監督でした。

2年目で首位打者へ

ドラフト2位でプロ入りを果たした古田選手は初年度から106試合に出場。正捕手として活躍する第一歩を踏み出しました。
翌1991年は128試合に出場し打率.340で首位打者を獲得。捕手としての首位打者は野村監督の現役時代以来、史上2人目の快挙でした。また、打撃タイトルの獲得をした捕手は野村監督、田淵幸一選手につぐ3人目です。オールスターゲームにも出場するなど名捕手への道を着々と進んでいきました。
この年以降、3年連続で打率3割をマークしますが1994年に故障もあり76試合の出場に終わってしまいます。1995年は復活し130試合に出場、打率.294と好調のキープ。チームを優勝へと導きます。この年の日本シリーズはイチロー選手率いるオリックス・ブルーウェーブです。
日本シリーズ前からイチロー選手と野村監督、古田選手の対戦に注目が集まります。野村監督は「イチローはインハイに弱い」と発言しイチロー選手にブラフを仕掛けます。その発言もあり古田選手はイチロー選手を日本シリーズで抑えオリックスを4勝1敗で下しました。
イチロー選手はシーズンで打率.342、25本塁打、80打点、49盗塁で首位打者、打点王、盗塁王を獲得。本塁打もトップと3本差となっていましたが、日本シリーズでは打率.263、0本塁打、2打点と仕事が出来ませんでした。

盗塁阻止率の歴代記録保持者

古田選手は打撃だけではなく守備も一級品でした。守備の栄誉として贈られるゴールデングラブ賞を捕手として入団初年度から4年連続10回獲得。盗塁阻止率も入団初年度から5年連続で首位を獲得します。入団4年目の1993年は盗塁阻止率.644(企盗塁45、盗塁刺29)は2017年現在でも破られていないプロ野球記録となっています。通算での盗塁阻止率.462(企盗塁926、盗塁刺428)は日本記録となっています。
ゴールデングラブ賞獲得数、盗塁阻止率といった数字的な部分だけでなく古田選手はリード面でも優れていました。野村監督が提唱した「ID野球」の申し子としてデータを駆使した配球を駆使し当時の強打者たちをねじ伏せていました。
1980年代まで弱小球団と言われていたヤクルトが1990年代に入り優勝を4度達成したのは古田選手がいたからといっても過言ではありません。キャッチングの技術も優れており同時代を戦った他球団の捕手からも絶賛されています。

1試合4本塁打のプロ野球タイ記録

2年目に首位打者を獲得するなどアベレージヒッターとしての印象が強い古田選手ですが、意外にも多くの本塁打を放っているのです。3年目には30本塁打を放ち打率.316と相まって3割30本塁打を達成。引退までに10度の二桁本塁打を記録しています。
現役晩年に近づく2003年、2004年には23本塁打、24本塁打と2年連続で20本塁打以上を達成。現役通算では217本塁打となり2016年終了時点で歴代85位の記録となっています。
そんな古田選手ですがプロ野球記録を持っています。2003年6月28日の広島戦でプロ野球タイ記録となる4打数連続本塁打を放つのです。過去の達成者は王貞治選手、掛布雅之選手、バース選手など名だたる長距離砲たちが名を連ねています。

選手会長として

古田選手はグラウンド外でも活躍します。1998年12月にプロ野球選手会5代目会長に就任したのです。古田選手が選手会会長を務めている期間の出来事といえば2004年に起こったプロ野球再編問題でしょう。
この年、近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの2球団合併構想が表面化。その状況から12球団を8球団-10球団へ削減し1リーグへと移行する流れが進んでいました。
球団数が減ることでファンの減少、選手たちの出場機会など様々な問題が起こることから古田選手は選手会長として流れを食い止めようとオーナー陣との対話を求めました。
しかし、渡辺恒雄オーナーが「無礼なことをいうな。たかが選手が」というコメントを発し両者の溝は更に深まります。
12球団維持を求めるために交渉をすすめる古田選手ですが話は進みません。そのため、選手会は日本プロ野球初となるストライキが敢行されました。その成果もあり新規球団として東北楽天ゴールデンイーグルスが加入。12球団は維持され2005年以降のプロ野球に繋がったのです。楽天の加入には古田選手の尽力も大きかったのです。
2004年の球界再編騒動を選手会側として正面に立ちオーナー陣と対話を続けてきた古田選手。そのリーダーシップ手腕が高く評価されは2006年から2年間、選手兼任監督を務めました。これは野村監督以来29年ぶりのことでした。
選手兼任監督としては大きな功績を残すことができず2年で退任します。それ以降、古田選手は2017年現在まで現場には戻ってきていません。今後、戻ってくることはあるのでしょうか。今後の去就に注目が集まります。

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