【球史に名を残した偉人達】ONの後継者として戦った男・原辰徳選手|【SPAIA】スパイア

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【球史に名を残した偉人達】ONの後継者として戦った男・原辰徳選手


圧倒的存在だった東海大学時代

原辰徳選手は東海大相模高校で1年からレギュラーを獲得。春の甲子園1回、夏の甲子園3回と合計4回の甲子園に出場している。春の甲子園では準優勝に輝き、高校通算43本塁打を放つなど目を引く存在だった。
多くのプロ野球チームから注目されていたが、東海大学に進学。大学時代は2年秋に三冠王を獲得するなど圧倒的な成績を残し日本代表にも選ばれた。日本代表では1学年上の岡田彰布選手(当時早稲田大)と三遊間を組み日米大学野球選手権にも出場している。2人は大学時代、プロ野球現役時代、そして監督時代とライバルとして争っていたが、日本代表のチームメートとして試合にも出場していたのだ。
東海大学時代に7度のベストナイン、2度の三冠王を獲得しドラフトの目玉として注目される。1980年のドラフトでは巨人、広島、大洋、日本ハムの4球団が原選手を指名し希望であった巨人が当たりくじを引き当てたのだ。
1年早くプロ入りを果たした岡田選手(阪神)は1980年、108試合に出場し打率.290、18本塁打、54打点で新人王を獲得。この活躍が、原選手に大きな刺激となっていた。

大学のスターから新人王 、そして4番へ

原選手は1980年ドラフト1位で東海大学から巨人へ入団。ONの後を次ぐ4番打者候補として入団当初から大きな期待を掛けられていた。
ルーキーイヤーとなった1981年の開幕戦で原選手は6番二塁でスタメン出場を果たす。その後も順調に結果を残し125試合に出場し打率.268、22本塁打、67打点の成績で新人王を獲得。2年目には初めて4番にも座り30本の大台を超える33本塁打を記録する。
3年目には103打点で打点王のタイトルを獲得。これが原選手にとって最初で最後の打撃三冠タイトルとなる。それでも、原選手は4番打者として引退までに通算1066試合に出場する。この4番出場試合数は巨人において川上哲治選手(1658試合)、長嶋茂雄選手(1460試合)、王貞治選手(1231試合)につぐ4位の記録となっている。
タイトルの獲得こそないが入団以来12年連続20本塁打以上、14年連続二桁本塁打を記録するなど巨人の4番打者として重責を果たした原選手は1995年に現役を引退する。アキレス腱痛に悩まされ満足に戦うことができなくなってしまったのだ。現役最終年となった1995年は打率.201、6本塁打、15打点の成績に終わっている。

津田恒美選手との運命

若くして脳腫瘍によって亡くなった津田恒美選手。1981年広島からドラフト1位で指名され入団。11勝6敗の成績を挙げ新人王を獲得する。その津田選手が生涯意識していたのが原選手だった。津田選手は入団会見時に「1番対戦してみたいのは原選手」と語っているほど原選手の存在は大きかったのだ。
津田選手は原選手に対し常に真っ向勝負を挑み、原選手もそれに応える。 その二人の名勝負が1986年9月24日だ。
巨人と広島は首位を争っており、天王山とも言えるこの試合で津田選手は、広島が3点リードしている9回裏のマウンドに登る。2死一塁で打席に原選手を迎えるといつも通りの全力投球を披露。カウント2-2からの7球目を原選手はフルスイング。ファールになったが原選手は顔を歪める。このとき、原選手は左手有鉤骨(ゆうこうこつ)を骨折してしまったのだ。後に原選手は「あの骨折で原辰徳は死にました」と語っている。それほどまでの衝撃だったのだ。
原選手は全治2ヶ月と診断され残り試合を欠場。広島が優勝を果たした。 津田選手と原選手の運命はこれに終わらない。
1991年4月14日の巨人戦で津田選手は8回から登板。しかし、ピンチを招き原選手にタイムリーヒットを浴び降板する。結果的にこの登板が津田選手の最終登板となり最後の打者は原選手となったのだ。 この時は両名ともに最後の戦いだとは露にも思っていなかっただろう。

ホームランを確信からのバット投げ

原選手の晩年を語る上で外すことのできない試合がある。それは、1992年7月5日のヤクルト戦だ。この年の原選手は開幕から不振に喘いでおり、ファンからもブーイングを浴びていた。また、アキレス腱痛もあり、思うような成績を残せない原選手は自分自身にいらだちを感じていた。
巨人も原選手の成績に比例するかのように低空飛行。5月には10ゲーム以上も離され下位に低迷していた。しかし、トレードで西武から巨人に移籍してきた大久保博元選手の活躍があり息を吹き返す。
一時、10ゲーム差以上も離されていた首位ヤクルトに1ゲーム差と迫る。そして迎えたのが7月5日の試合なのだ。9回表2死一塁で迎えた原選手の打席。一発出れば同点だ。この対戦でヤクルトバッテリーはインコースを攻めあわや死球のボールを投げ込み原選手は大きく倒れ込んだ。
その後の5球目に原選手が一振りした打球はレフトスタンドへ吸い込まれる。その打球を見上げた原選手は大きく後ろにバットを放り投げる。「どうだ! 」と言わんばかりの表情が多くのファンには見て取れた。 このバット投げは原選手の名場面で使われることもある有名なシーンとなっている。

引退試合でホームラン そして夢の続きへ

原選手は1995年シーズン中に現役引退を表明する。記念すべき現役最後の試合は10月8日東京ドームでの広島戦となった。その第三打席で広島の先発紀藤真琴(きとうまこと)選手から左中間スタンドへ豪快な本塁打を放った。打った瞬間に原選手は本塁打を確信。バットを前方に投げる仕草もこれで見納めだ。ゆっくりとダイヤモンドを周った原選手へは大きな歓声と拍手が寄せられた。これが現役最後の安打であり本塁打だった。
試合後のセレモニーでは多くの花束を贈呈され最後にスピーチを行う。
原選手は「小さい頃野球選手になりたい。ジャイアンツに入りたいという夢を持って頑張った。今日その夢は終わる。しかし、私の夢には続きがある。その言葉を約束して今日、引退します」とスピーチし現役生活に別れを告げた。
夢の続き。 それは巨人軍の監督としてグラウンドに戻ってくること。そして日本一になることだった。 監督しては2015年退任した際の会見では「夢の続きを全うできました」と語っており20年の時を経て夢は完結したのだ。

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