【球史に名を残した偉人達】甲子園優勝投手から世界の王へ・王貞治選手|【SPAIA】スパイア

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【球史に名を残した偉人達】甲子園優勝投手から世界の王へ・王貞治選手


甲子園では優勝投手に

王貞治選手は東京都墨田区出身で双子の弟として1940年に生まれた。中学時代から身体は大きく中学2年時に高校2年と間違えられるほどのエピソードも残っている。
中学卒業後、早稲田実業に進学した王選手は1年生時から野球部で活躍する。1年夏の甲子園に背番「11」で出場を果たすのだ。王選手のポジションはプロ入り後に守っていた一塁手ではなく投手兼外野だった。この時、王選手とバッテリーを組んでいたのが、後に毎日オリオンズで18年間現役として活躍する醍醐猛夫(だいごたけお)選手だ。
初めての甲子園では2回戦敗退となったが、その大会後にエースナンバー「1」を託される。2年春の選抜甲子園ではエースとして出場し3戦連続完封勝利で決勝に進出。決勝では3点を失ったものの5-3で勝利。早稲田実業に初の優勝をもたらしたのだ。
2年夏の甲子園では1回戦で寝屋川高校(大阪府)相手に延長11回を投げノーヒットノーラン。春夏の甲子園において延長戦に入ってのノーヒットノーランは2016年現在で達成されておらず、王選手の記録が史上唯一となっている。 3年時は春のみの出場となりベスト8敗退となり甲子園での通算成績は6勝3敗で終わる。

荒川博コーチとの一本足打法

王選手は長嶋茂雄選手の1年後となる1959年に巨人へ入団。高校時代はエース投手だったが巨人入団から野手に転向し一塁手としてプレーすることになった。巨人の一塁は『打撃の神様』こと川上哲治選手が長きに渡って務めていたポジションでもあり、王選手は大きな期待を掛けられた。
しかし、すぐに結果は出ず初打席から26打席ノーヒットと不振にあえぐ。27打席目に初安打を初本塁打で飾った。1年目は打率.161、7本塁打に終わり期待はずれとファンにも野次を浴びていたのだ。
1960年、1961年と順調に成長していた王選手ではあるが、打率.270、本塁打は10本台とまとまった成績になっており、期待していた働きとは違ったものとなっていた。 1961年オフに打撃コーチに荒川博コーチが就任。これが王選手の転機となった。1962年シーズン中に『一本足打法』を取り入れ本塁打を量産。38本塁打、85打点で初めてのタイトルとなる本塁打王、打点王を獲得する。
一本足打法は打球を打つ際のタイミングを取りやすくするための技法だが足への負担が大きく習得できない選手がほとんどだ。しかし、王選手は天性の足腰、そしてトレーニングによって会得したのだ。また、集中力を高めるために日本刀で居合抜きをするトレーニングも行っていた。才能だけではなく類まれなる努力を行っていたのだ。その結果が一本足打法の習得であり868本塁打の達成となって表れているといえるだろう。

王選手を止めた男

王選手は三冠王に二回輝くなど数々のタイトルを獲得している。中でも目を引くのが本塁打王だろう。通算868本塁打の王選手は本塁打王を15回獲得し1962年から1974年までは13年連続での獲得となっている。1976年、1977年と再びタイトルを獲得しているので1975年のみ獲得できなかったのだ。この1975年に本塁打王のタイトルを獲得したのが田淵幸一選手だ。
田淵選手はミスタータイガースとしても親しまれており、通算474本塁打を放ったホームランアーチストでもある。しかし、王選手と同時代に全盛期を迎えたことで本塁打王のタイトルは1975年の1度のみとなってしまったのだ。
王選手は田淵選手について「爆発力はすごいけどケガが多い選手だったから」と語っており本塁打王のタイトル争いに関しては怖くなかったと語っている。ケガの少なかった衣笠祥雄選手や山本浩二選手のほうがタイトル争いでは不気味だったとも語っている。

【王貞治選手・獲得タイトル、表彰】
MVP:9回(史上最多)
首位打者:5回
本塁打王:15回(史上最多)
打点王:13回(史上最多)
最多出塁数:12回
ベストナイン:18回
ダイヤモンドグラブ賞:9回

『日本の王』から『世界の王』へ

1977年、当時の世界記録であるハンク・アーロン選手の755本塁打まであと40本で開幕しシーズン中の更新に期待が高まった。
その瞬間はシーズン終盤の9月3日に訪れた。ヤクルトの鈴木康二郎選手から巨人ファンの待つライトスタンドへ本塁打を放ち756本目を記録したのだ。両手を広げてベースをまわる王選手と後楽園球場のファンの大きな歓声が交錯する。 ホームベース付近には巨人ベンチからチームメートが全員出迎え。笑顔で王選手は答える。
王選手はこの瞬間に『世界の王』となった。その人気は凄まじく現在でもメジャーリーガーが王選手のもとへ訪れサインを求めることもあるほどだ。 王選手が22年間の現役生活で放った868本塁打は2016年現在でも世界最多記録となっている。今後、この記録を破る選手は出てくるのだろうか。

王貞治としてのバッティングができなくなった

王選手は1980年のシーズンで現役を引退する。このシーズンは129試合に出場し打率.236、30本塁打、84打点の成績だった。打率は規定打席到達打者の中で最下位となり本塁打、打点のタイトルも2年連続で逃し明らかに衰えが見られた。
前年まで18年連続でリーグ最高の出塁率をマークしていたが、それも途切れてしまう。しかし、衰えているものの30本塁打を放っており戦力としては十分に期待できる力は持っていた。現役か引退かを選択する際に、王選手は衰えた状態で出場することを良しとせず引退を決断したのだ。
1980年11月4日に行われた引退発表時の発言である「王貞治としてのバッティングができなくなったということです」はミスタープロ野球こと長嶋選手の「我が巨人軍は永久に不滅です」に並び印象深いものとなっている。 球界に強烈なインパクトを残した王選手の引退は衝撃を与えたことだろう。しかし、この引退会見の約3週間後に原辰徳選手が巨人にドラフト1位指名され入団を果たす。
王選手が引退し原選手が入団したのが1980年だったので巨人の時代が入れ替わったと言ってもいいだろう。王選手が長嶋選手と作った一つの時代は1980年で幕を閉じプロ野球界は新しい時代へと突入したのだ。

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