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【球史に名を残した偉人達】選手兼任から社会人野球まで・野村克也監督

2017 4/12 20:20cut
野球ボールⒸShutterstock.com
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選手兼任だった南海監督時代

野村克也が監督として初めて指揮を執ったのは1970年の南海ホークス時代だ。1954年に南海へ入団した野村は1961年から8年連続本塁打王を獲得。1965年には三冠王になり4番・捕手として活躍していた。その重責に加え1970年から監督も兼任するようになったのだ。野村がまだ35歳のときだった。

選手兼任監督として1977年まで南海を率いた野村は、1973年に初めてリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは巨人と対戦して1勝4敗で破れるが、選手として敢闘賞を受賞した。これが、南海監督時代に出場した唯一の日本シリーズだった。

1977年オフに南海からロッテへ移籍したことに伴い、野村は南海の監督を退任している。選手兼任として8年間で優勝1回という成績だった。

『ID野球』を広めたヤクルト監督時代

1980年の現役引退後は監督の要請がありながらも現場復帰しなかった野村だが、1990年にヤクルトの監督へ就任する。当時は現在のようにインターネットも発達しておらず、野球に関するデータも少なかった時代。その中で野村は『ID野球』という言葉を掲げ、データ野球を行うようにチームを指導する。IDとはImportant Dataという造語だが、その後も野村監督の野球を象徴する際に広く使用されるようになった。

ミーティングが長いことにも特徴がある。まるで学校のようにホワイトボードを使って野村監督が講義をするのだ。それによって選手はノートを取り、理解を深めることができた。

ID野球の成果が出たのは就任3年目となる1992年のことだ。ヤクルト監督就任後初の優勝を飾り、日本シリーズに進出。西武に敗れ日本一は逃したものの大きな足跡を残した。翌1993年の日本シリーズで西武にリベンジを果たす。1992年、1993年の日本シリーズは2年1セットと感じるファンも多く、未だに名勝負として語り継がれるほどだ。

1995年、1997年にも日本一となり9年間のヤクルト監督時代に4度のリーグ優勝、3度の日本一を達成。ヤクルトの黄金時代を築いた。惜しまれつつも1998年に監督を退く。

結果を出すことができなかった阪神監督時代

1998年にヤクルトの監督を退任した翌年の1999年から、野村は同一リーグである阪神の監督に就任する。当時の阪神は下位に低迷しており1985年の日本一以来、優勝からも遠ざかっていた。その再建に野村の手腕が期待されたのだ。

就任1年目の1999年から3年間阪神の指揮を執るが、最下位から抜け出すことはできなかった。しかし、その間に野村監督は様々な取り組みを行っている。遠山奬志、葛西稔を一塁守備につかせながら継投させる『遠山・葛西スペシャル』、機動力に優れた7選手を『F1セブン』と名付けアピールするなど話題には事欠かなかった。

だが、成績には結びつかなかった。それでも野村は4年目に意欲を見せていたが、12月5日に沙知代夫人が脱税容疑で逮捕され辞任。野村監督時代にまいた種は、翌年から就任した星野仙一監督によって花開き、2年後の優勝につながった。

多くのプロ入り選手を率いたシダックス監督時代

野村は阪神の監督を2001年に退任後、2002年秋から社会人野球シダックスの監督に就任する。チームを率いた直後の2003年には都市対抗野球で準優勝を達成。わずか1年で結果を残すことに成功する。

当時のシダックスには野間口貴彦(元巨人)、武田勝(元日本ハム)、小山圭司(元日本ハム)、中村真人(元楽天)ら後にプロ入りする選手が多くおり、その選手たちをまとめ上げたのが野村だった。また、シダックスが都市対抗野球決勝で敗れた三菱ふそう川崎には、後に楽天でもプレーする渡辺直人が所属していた。

翌2004年には都市対抗野球でベスト8、日本選手権ベスト4と、シダックスを率いた野村は次々に実績を残していく。だが、2006年から当時創設2年目の新規球団であった楽天の監督に就任することが決まり、シダックスの監督を退任することになった。

有終の美を飾った楽天監督時代

2005年に新規参入した楽天の2代目監督として2006年に野村監督は招聘された。創設初年度となった前年は38勝97敗1分、勝率.281と低迷していたチームをどのように立て直すのかに注目が集まっていた。

就任1年目は開幕から5連敗スタートとなるなど苦しい立ち上がりだったが、前年の37勝から10勝の上積みを行った47勝の成績を残す。結果は最下位だが大きな進歩となった。

野村の功績はこの年のドラフトで現れる。まず、高校生ドラフトで田中将大を獲得。大学生社会人ドラフトで永井怜、嶋基宏、渡辺直人を指名。育成ドラフトではシダックス時代の教え子である中村真人を指名する。後に楽天の土台となるドラフト指名を初年度から行うことに成功したのだ。

2007年は4位、2008年は5位と最下位を免れたものの、上位進出を果たすことができなかった野村だが、その集大成は2009年に訪れた。

2009年は開幕戦から4連勝を果たし一時は首位に立つなど、4月は貯金4で5月に突入。以降、負けが込み下位に低迷するが8月から快進撃が始まった。8月は17勝7敗、9月は16勝10敗と大きく勝ち越し、球団創設以来初めてのクライマックスシリーズ進出を果たす。

この快進撃を支えたのが岩隈久志、田中、永井の先発三本柱だ。田中、永井は自身がドラフト時に獲得した選手でもあった。また、渡辺、嶋、中村も2009年に多くの試合で活躍しており「2006年ドラフト組」は3年目にして開花したのだ。

クライマックスシリーズではファイナルステージで日本ハムに敗れたものの、楽天の歴史に残る一年となった。札幌ドームで行われたクライマックスシリーズ第4戦が監督として最後の采配となったが、試合終了後に両チームの選手から胴上げをされるなど華々しくグラウンドを去っていった。

日本ハムにはヤクルト時代のレギュラーである稲葉篤紀、シダックス時代の教え子である武田らがいたことも大きいかもしれない。チームは変わっても愛されていたのだ。

楽天の監督退任後は高齢ということもあり現場復帰はせず、テレビ解説などに度々登場し、元気な姿をファンに見せていた。また、監督時代に選手だった教え子たちが続々と監督、コーチとしてデビューしており、今後は『野村門下生』の活躍に期待がかかる。