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千葉ロッテマリーンズの18番を背負ってきた名選手5人

2016 7/31 09:20
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ⒸNuwan Mediriyawatta/Shutterstock.com

若き天才・植村義信

ロッテの前身である毎日オリオンズの初期を支えた投手・植村義信。1953年から1961年の9年間にわたって背番号18を背負った。

芦屋高等学校では2年生の夏から3大会連続で甲子園に出場し、1952年夏の甲子園大会では決勝で八尾高を破って初優勝を飾った。1953年に毎日オリオンズに入団すると、2年目から一軍に定着し、4年目の1956年には19勝を挙げ、最高勝率のタイトルを獲得(19勝5敗、勝率.792)。オールスターゲームにも2回出場し、ますますの活躍が期待されたが、度重なるけがや病気の影響もあって26歳の若さで惜しまれながら引退した。

次代の育成者・石川賢

1982年のドラフトでロッテオリオンズより1位指名を受けて入団した石川賢。中学時代は野球部に限らず陸上部としても活躍し、日川高校時代は1年生からエースピッチャーを務めた。1978年夏の甲子園にも4番として出場し、日本大学に進学後は東都大学リーグの1部昇格に多大な貢献をした。

入団後は前評判通りの能力を発揮し、1年目から一軍に定着。翌年には15勝4敗で、最高勝率.789のタイトルを獲得した。しかし、1985年からは肩やひじのケガに悩まされ、期待通りの成績は残せなかった。現在は教員免許を取得し埼玉平成高等学校に勤務している。

シャイな豪腕・伊良部秀輝

ロッテのエースと言えば、現在40歳前後かそれ以上の世代の人は伊良部秀輝を思い浮かべるのではないだろうか。

1987年ドラフト1位でロッテオリオンズに入団が決まった伊良部。当時は弱小球団として知られていたロッテで1994年には15勝で最多勝と最多奪三振を挙げ、95年と96年には最優秀防御率に輝いた。1997年にはニューヨーク・ヤンキースへ移籍し、メジャー通算で31勝を挙げたのち阪神に入団。2003年には阪神タイガース18年ぶりの優勝の立役者の一人となった。

ちなみに、香川県の尽誠学園高等学校在学中には1986年と87年に全国高等学校野球選手権大会に出場している。

マーリンズ中興のエース・清水直行

伊良部以降、空位になっていた背番号18を引き継いだのが清水直行だった。

大学卒業後は東芝府中に入社し野球部に所属。1999年都市対抗野球で、既に廃部が決まっていた最後の試合で登板したものの、満塁ホームランを浴びて降板してしまいチームの最後の敗戦投手となってしまった。

しかし、その年のドラフトで千葉ロッテマリーンズを逆指名し2巡目で入団。2002年には14勝、2003年には15勝と、ロッテのエースの階段を駆け上がっていき、2005年には日本一の原動力として活躍した。最速151kmのストレートと高速スライダーのコンビネーションは、当時のパ・リーグでは屈指のキレを誇った。

現在は、ニュージーランドの野球チームのコーチをするとともに、同国野球連盟のGM補佐も兼ねている。また、第4回のWBC予選、ニュージーランドチームの投手コーチに就任することが決まっている。

次世代エース・藤岡貴裕

清水の後、再び空位となっていた背番号18を受け継いだのは藤岡貴裕だ。現在5年目の藤岡は非常に期待されており、大学時代は明治大学の野村祐輔や東海大学の菅野智之とともに「大学ビッグ3」として注目されていた。

2011年のドラフトでは横浜ベイスターズや楽天イーグルスも競合したが、くじ引きにより交渉権を獲得したロッテに1位入団となった。入団後4年間で20勝29敗と、まだ本来のポテンシャルが発揮されているとは言い難いが、既に先発陣の一角となっている野村や菅野に続き、藤岡の奮起にも期待が高まる。