「スポーツ × AI × データ解析でスポーツの観方を変える」

1993年のプロ野球界に起きた最強チームの衝撃トレードを解説

2017 2/21 19:13
野球
このエントリーをはてなブックマークに追加

Photo by Iaremenko Sergii/shutterstock.com

1993年、当時黄金期を迎えていた西武ライオンズと、1989年に球団身売りで誕生したばかりの福岡ダイエーホークスの間で、まさかの電撃トレードが成立した。 このトレードが成立した背景とその後の対象選手の活躍を振り返っていきたい。

衝撃のトレードを敢行した西武ライオンズの当時のチーム事情

1980年代から90年代前半にかけての西武ライオンズは日本球界を席巻していた。走攻守にスキのない野球を展開し、1982年から94年までの13年間でリーグ優勝11回、日本一8回(そのうち2連覇1回、3連覇2回)を達成し、黄金期を迎えていた。
しかし、1993年シーズンは、主力選手の衰えもあり苦戦を強いられる。2位の日本ハムファイターズとはわずか1ゲーム差でかろうじてリーグ優勝を勝ち取ったものの、日本シリーズではヤクルトスワローズに3勝4敗と惜敗。世代交代が急務となっていたのだ。

新興勢力ゆえの苦悩と改革。1993年の福岡ダイエーホークス

1989年、南海ホークスの身売りを受けて誕生した福岡ダイエーホークス。初年度は4位に終わったものの、上位3球団と互角の戦いを繰り広げた。ところが翌年は選手と首脳陣との確執が表面化するなどムードは最悪。勝率3割台、全球団に負け越しなどダントツの最下位に沈んでしまうのだ。
以降も低迷が続き迎えた1993年。福岡ドームが誕生し、西武で指揮を執ったこともある根本睦夫氏が監督に就任。シーズンは最下位に終わるものの、人脈を生かし、チーム改革のため西武との大型トレードを仕掛けたのだ。それはまさに「球界の寝業師」の異名をとった根本氏の本領発揮とも言える行動だった。

西武のトレード要員となった3選手のプレースタイルと実績

西武の秋山幸二選手はこのトレードの目玉とも言えた。1981年に入団し、1985年からレギュラーに定着。以降9年間で7度の全試合出場を果たし、主力として活躍する。9年連続30本塁打を放ち、1990年には51盗塁で盗塁王にも輝くなど、走攻守3拍子揃った選手だった。
渡辺智男選手は1989年の入団から投手として3年連続で2ケタ勝利を記録する。速球と変化球のコンビネーションで三振を多く奪い、1990年の日本シリーズでは初登板初完封勝利を飾った。内山智之選手は1992年に入団し、150km近い速球を武器に主に中継ぎとして活躍した。

若手中心だったダイエーホークスのトレード要員

ダイエーの佐々木誠選手は、コーチの厳しい指導のもと、4年目から主力選手として活躍する。俊足巧打の1番打者として活躍し、1992年には3割2分2厘、40盗塁で首位打者と盗塁王を獲得。21本塁打も放つなど走攻守揃った選手だったが、1993年にチームが広い福岡ドームに移転した後は本塁打数が激減し、成績も下がった。
村田勝喜選手はプロ2年目から早くも先発ローテーションの一角を担い、1993年の福岡ドームこけら落としの開幕戦に先発を任されたこともあった。橋本武広選手は1990年のプロ入り1年目から左の貴重な先発やリリーフとして活躍した。

それぞれのチームに移籍した選手とチームのその後の成績

地元九州(熊本県)出身である秋山選手の加入は、ダイエーにとって人気の起爆剤となった。当時30歳を過ぎ、選手としてはやや成績が低迷したものの、強烈なキャプテンシーによって負け癖がついていたチームを引っ張っていった。同じく移籍した渡辺選手と内山選手は思ったような成績を残せなかったが、ダイエーは1994年にシーズン勝ち越しを決め、常勝軍団への足場を固めていったのだ。
一方、西武に移籍した3人のうち、佐々木選手は初年度から主に3番打者として活躍、日本シリーズでも効果的な安打を放ち、秋山選手が抜けた穴を十二分に埋めた。村田選手はケガもあり活躍できなかったが、橋本選手は7年連続50試合以上の登板を達成するなど、左のリリーフとして貴重な存在となったのだ。

まとめ

1993年に行われたトレードは、双方にとって意味のある戦力補強となった。 特にダイエーにとっては、後々築き上げられる常勝軍団の礎となった、歴史の転換点とも言えるべきものだった。 今後も注目すべきトレードが行われた時には、その後のチーム動向を注意して見守っていきたいものだ。